カテゴリーの新設等

新たに「共謀罪」のカテゴリーを設けることにした。

これに伴って、以下の3記事はカテゴリーを変更した。

共謀罪がわが国における刑法の基本原則を覆すということ - U.G.R.R.

「共謀罪」との呼称は誤りか - U.G.R.R.

「テロ等準備罪」という印象操作 - U.G.R.R.

また、ブログデザイン(背景画像)を変更し、サイドバーに「注目記事」を追加した。

「テロ等準備罪」という印象操作

はじめに

いわゆる共謀罪について、政府は「共謀罪」との呼称を用いることをまったくの誤りであるとして強く批判する一方、「テロ等準備罪」との呼称を用いて盛んにテロ対策の側面を強調している。

本ブログでは、すでに「共謀罪」との呼称が誤りとは言えないことについてすでに論じており、あえて「テロ等準備罪」との呼称の妥当性についてまで述べるつもりは必ずしもなかったのだが、金田勝年法務大臣から看過できない発言があったため、簡単にだけふれておくことにする。

TOC条約 

政府は、TOC条約を締結し、国際社会と協調してテロ等の組織犯罪とたたかうために、今回の法案*1共謀罪を新設する必要があるのだと説明する*2

しかし、よく知られているように、同条約はそもそもマネーロンダリングや人身売買を防止するための条約として成立したものである。テロリズムを同条約の対象とすることについては、日本を含む多くの国が反対し、結果として同条約にはテロに言及する規定は設けられていない*3

当初法案に「テロ」の文言なし

これもまたよく知られているところだが、平成29年2月28日に報じられた今回の法案の原案に、「テロ」との文言は一切入っていなかった*4。政府は、報道等からいっせいにこの点を指摘され、原案において「組織的犯罪集団」としていたところを「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団」とする急ごしらえの修正を行ったにすぎない。

しかも、その後の審議*5において、「テロリズム集団その他の」との文言の有無でなんら解釈上の変更を生じないことは、法務大臣自身の口から明言されている。同審議における仁比と金田とのやりとりを引用する*6

国務大臣金田勝年君) 改正後の組織的犯罪処罰法第六条の二の、ただいま御指摘いただきましたテロリズム集団その他の文言は、この部分の文言は組織的犯罪集団の例示であります。(略)したがって、テロリズム集団その他のがある場合とない場合とで犯罪の成立範囲が異なることはないものと考えております。

○仁比聡平君 いや、つまり、あってもなくても意味は変わらないと、そういうことですね。

国務大臣金田勝年君) 変わらないと思います。 

あってもなくても変わらない十文字あまりをちょいちょいと付け足して、これでテロ対策でございと差し出したというわけだ。面の皮の厚いことである。

テロに関係する犯罪は4割程度 

共謀罪の対象となる277もの犯罪のうち、いったいどの程度がテロに関係するものなのか。この点にかかる金田の発言のあまりの酷さが、あえて本記事を作成することとした理由である。平成29年4月17日衆議院決算行政監視委員会における山尾志桜里と金田とのやりとりを引用する*7。 

○山尾 277あるいはそれ以上と思われる今回の対象犯罪のうち、テロ対策の犯罪はいくつあるんですか。

○金田 277ございますが、それが、テロ対策として、直接にあるいは資金源として、あるいはそういう考え方で、関わりがあるかという風におうかがいをいただければ、関わりがほとんどあると、このように申し上げるべきであると、このように考えております。

まことに驚くべき発言だ。

「関わりがほとんどある」 

金田は確かにこう言った。共謀罪の対象犯罪277のほとんどはテロ対策と関わりがあると、金田は臆面もなく言い放ったのである。

関わりがある? あるのかもしれない。ただしそれは、風が吹けば桶屋がもうかる、という程度の「関わり」だ。審議ではきのこ採りの例などが挙げられていたが、一度私心を去って対象犯罪のリストを眺めてもらいたい。これらのほとんどが、健全な社会常識として想定されるような意味で「テロ対策と関わりがある」と、本当に思うのか。あまりにも人を馬鹿にした、ふざけた発言である。

なお報道では、共謀罪の対象犯罪のうちテロ実行に関するものは4割程度とされている*8

おわりに 

以上のとおり、「テロ等準備罪」との呼称は、必ずしもその実態を適切にあらわすものであるとは言いがたい。以前の記事で述べたとおり、今回の法案が新設する罪は、従前の審議との連続性もあり、内容的にも「共謀罪」と呼んでなんら差し支えのないものである。そうであるにもかかわらず、従前用いていた「共謀罪」との呼称をまったくの誤りであると排撃し、必ずしも実態を適切にあらわしているとは言えない「テロ等準備罪」との呼称をあえて用いることは、印象操作との謗りを免れないのではないだろうか。

*1:組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案(第193回国会閣法第64号)。

*2:平成29年1月30日参議院予算委員会における金田の発言など。

*3:平成29年3月22日参議院法務委員会における仁比聡平の発言など。

*4:http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201702/CK2017022802000125.html

*5:平成29年3月22日参議院法務委員会。

*6:引用者において一部省略した。

*7:引用者において一部省略した。

*8:http://www.jiji.com/jc/article?k=2017022700806&g=pol

「君が代強制せず」はほんとうに嘘になる

国旗国歌法の制定過程で、くり返し唱えられてきた呪文がある*1

政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。

日の丸・君が代について強制はしないしこれまでと変わることはないとの印象を与える説明だ。

もちろん、実際には「これまでと変わることはない」などということはまったくなかった。同法成立の後に発出された悪名高き「10.23通達」と起立斉唱の職務命令によって、大量の不起立教員が処分され、結果的に同法成立前と状況が一変してしまったことは周知のとおりである。 

ただ、きわめて姑息なやり口ではあるが、こうした不起立教員の大量処分をもって、直ちに政府が同法の制定過程において虚偽を述べたとすることはできない。というのも、学校教育法および学校教育法施行規則に基づいて教育課程の基準として定められた学習指導要領には「入学式、卒業式においては、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」との趣旨の記載がある。そこで、教員に対しては、国旗国歌法がなくとも、かかる学習指導要領をふまえて起立斉唱の職務命令を発することができる、というのが、実は政府の立場だったからだ。つまり、もともと職員に対して日の丸・君が代にかかる義務づけはなしうるので、国旗国歌法によって運用が変わるわけではない、ということだ。

こうしたごまかしによって国旗国歌法は成立した。しかし現在その実態は、ごまかしによってなんとか保とうとした「虚偽を述べない」との姿勢さえかなぐり捨て、(教員のみならず)生徒に対しても起立斉唱を強制するに近いものとなりつつあるようだ。週刊金曜日ニュースの記事*2より引用する。

都教委は今年1月に開かれた校長連絡会と副校長連絡会で、「生徒への指導が適正か、教職員の指導状況を確認するように」と指示した。各校が作成し都教委に提出する卒業式の進行表(台本)に、「起立しない生徒がいたら司会が起立を促す」「全員の起立が確認できたら式を始める」といった記載がないと受け取ってもらえず、都教委から強い指導を受けるようになったという。

「全員の起立が確認でき」るまで式を始めないというのでは、事実上の強制であると言わねばならない。

また、式典は本番の一度きりしか行われないわけではなく、予行が重ねられるものだろう。その過程で、生徒に対して「指導」の名を借りた強制まがいの行為がなされることもある。田中伸尚『ルポ 良心と義務――「日の丸・君が代」に抗う人びと』(岩波新書、2012年)より引用する*3

それでも「君が代」を歌うみんなの声はあまり元気がなく、先生たちは「大きな声で」とくり返し、必死に歌わせようとした。教室でも、声が出ていない、小さいといわれ、放課後も練習させられた。

(略)

六年生になると、「指導」がぐんときつくなった。

歌っている声が小さいと教頭の声が飛んできた。

「もうすぐ中学一年生でしょ。だんだん大人になっていくんだから――。この歌が歌えないと一人前じゃないんだよ」

前の六年生が言われていた「君が代」が歌えないと一人前になれない、をくり返した。(略)ある日の練習では、教頭が治さんの近くまで来て大きな声で言った。「歌いなさい」「大きな声で」と。

「(君が代を)歌えないと一人前じゃない」 などと、歌わない者の人間性を否定するかのような言葉を浴びせかけ、もっと「大きな声で」歌えと放課後にまで練習をさせる。これがはたして「指導」と言えるのだろうか。

私には、このような行為は「指導」の域を超え、強制にあたると判断されうるものであるように思われる。そして、そうであるならば、当該行為は内心に干渉するものとして憲法19条との抵触という深刻な問題をはらむ。したがって、これを行った教員に対してはなんらかの処分が検討されてもよいし、少なくとも通達・通知等によって、かかる「指導」を行わないよう周知を図る程度のことはしなければならないだろう。

ところが現実には、大量の不起立教員は処分されても、こうした「指導」を行う教員が処分される例などない。むしろ週刊金曜日ニュースの上記記事などからも垣間見えるように、起立斉唱しない生徒がいることの方を問題視し、かなり強引な手段を用いてでも起立斉唱させることをよしとするような空気が、現場を包んでいる。だからこそ、教員らは上の意向を忖度し、学習指導要領や通達等で求められている以上の「指導」を行うのだとも言える。 

政府の国旗国歌法制定過程における説明には、「教師への強制はもともと可能である」との立場を極力隠すというきわめて姑息な方法によってではあったが、それでもいちおう虚偽を述べまいとする姿勢が看取できた。しかしいまや、日の丸・君が代の強制は生徒にまで及ばんとしており、「君が代強制せず」との政府の説明は、ほんとうに嘘になりつつある。正直さが蔑ろにされ、平気で嘘がまかりとおる社会は、おそろしいと思う。

inspired by tadataru 

なお、本記事はtadataruさんの以下のツイートに触発されて作成したものである。

イデオロギーがどうのこうのという手垢のついた平和教育批判にはまったく与しないが、原爆映画を見るのが本当に嫌であれば、それを拒否する自由は保障されるべきだと思う。tadataruさんを含め原爆映画の鑑賞を強制されること*4に疑問を感じる向きは、日の丸・君が代の強制についても一度考えていただければと思う。

*1:平成11年6月29日衆議院本会議における小渕恵三内閣総理大臣の発言など。

*2:生徒も「国歌斉唱」の強制対象に 都立高校教員らが抗議集会「卒業式はだれのものか」 | 週刊金曜日ニュース

*3:同書4頁以下。引用者において一部省略した。

*4:そのような事例が実際に存するかどうかは措く。

「共謀罪」との呼称は誤りか

はじめに

いわゆる共謀罪について、政府は「テロ等準備罪」との呼称を用いて盛んにテロ対策の側面を強調している。

呼称など些末と言えば些末な問題ではある。

ただ、安倍晋三内閣総理大臣は、同罪について「共謀罪」と呼ぶことを「全くの誤り」であるとまで断じる一方、自らは「オリンピックを三年後に控え、テロ対策は喫緊の課題」などと突如オリンピックまで持ち出して同罪が専らテロ対策を目的とするかのような印象づけに傾注している*1

このように、内閣総理大臣によって、特定の呼称を用いることへの強い批判と同罪の性質についての印象づけが行われている以上、同罪の内実を検討し、かかる批判や印象づけの当否を考えることにも一定の意義はあろう。本記事では、まず「共謀罪」との呼称が誤りかどうかを検討する。

共謀罪」は誤りか

政府の主張

政府が「共謀罪」との呼称を誤りだとする根拠は単純だ。今回は準備行為があってはじめて処罰することとしているので、共謀のみによって処罰することとしていた従前の共謀罪とはまったく異なるものだというのである*2。このような政府の主張は妥当だろうか。

「準備行為」の性質

準備行為自体は「悪いこと」とは言いがたい

先日の記事ですでに説明したとおり、共謀罪の最大の懸念は、わが国における刑法の基本原則が「悪いことを行ったから罰する」から「悪いことをたくらんだから罰する」へと変更されるのではないかという点にある。政府の主張は、こうした懸念をふまえて処罰のために共謀のみならず準備行為を要求したことによって、今回の法案が「たくらみ」を処罰するものではない、すなわち「悪いことを行ったから罰する」との基本原則を揺るがすものでないことは明確になった、との趣旨を述べているものと理解できる。

しかし、今回要求されている「準備行為」なるものは、ATMから資金を引き下ろす、関係場所の下見を行う等の、それ自体としてはなんの危険もなく「悪いこと」とは言いがたい行為であって、その実質においてむしろ「たくらみ」に着目していることは明らかだ。277もの多数の犯罪について、かかる準備行為が誰か一人によって行われれば計画に加わった者全員を一網打尽にできるとすることは、やはりわが国における刑法の基本原則を「悪いことを行ったから罰する」から「悪いことをたくらんだから罰する」へと変更するものと評せざるを得ないだろう*3。一般的にも、「処罰のために準備行為を要求している」などと説明されても、その準備行為自体は「悪いこと」でないというのでは、共謀のみで処罰されるのとさして変わらないと感じるのではないだろうか。

準備行為は処罰条件?

さらに今回の法案*4では、組織犯罪集団の活動として一定の犯罪を二人以上で計画した者が、計画した者のいずれかによって「準備行為が行われたとき」、刑に処されるとの規定になっている。準備行為が構成要件ではなく処罰条件として位置づけられているのであれば、問題である。

ここで、平成18年4月25日衆議院法務委員会における大林宏法務省刑事局長の発言を引用する。当時の国会でも共謀罪についての議論が行われており、与党修正案は処罰条件として「その共謀に係る犯罪の実行に資する行為」を求める内容であった。引用の発言は、共謀の嫌疑さえあれば犯罪の実行に資する行為の有無にかかわらず捜査は可能か、という柴山昌彦からの質問に答えたものである。

共謀が行われたという嫌疑があるのであれば、犯罪が行われた嫌疑があるということになりますので捜査を行うことは可能です

一読して明らかなとおり、ここでは共謀の時点ですでに犯罪が成立し、捜査が可能であるとの見解が示されている。発言はその後、共謀段階で逮捕等を行えばその後「犯罪の実行に資する行為」が行われることはないのだから、現実問題としてそうした捜査が行われることはないと考えられる、と続くのだが、通信傍受等、本人に了知されない形での捜査というものは十分考えうるし、金田勝年法相も将来的にいわゆる共謀罪を通信傍受の対象犯罪とする可能性を否定していない*5。ともあれ、準備行為を単なる処罰条件と位置づけているのであれば、ここでもやはりその実質において、準備行為よりもむしろ「たくらみ」が着目されているものと言える。処罰は準備行為があってからだが犯罪は共謀の時点で成立しているというのであれば、それを「共謀罪」と呼ぶのは自然な感覚であろう。

従前の共謀罪との連続性

従前の共謀罪が共謀のみで処罰するものであって今回の法案とはまったく異なるとする点も、その実態に照らして疑問がある。

共謀罪については、これまでに3度審議が行われ、3度とも廃案となったことはよく知られている。ここで、3度目の審議において、与党側から提出され、平成18年6月16日衆議院法務委員会会議録にも掲載された修正案を引用する*6

第三 組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規則等に関する法律の一部改正についての修正

一 (略)

二 組織的な犯罪の共謀の罪の成立要件の限定等(第六条の二関係)

1 (略)

2 組織的な犯罪の共謀をした者は、その共謀をした者のいずれかによりその共謀に係る犯罪の実行に必要な準備その他の行為が行われた場合に限り、処罰されるものとすること。

3~5 (略)

三 (略)

一読して明らかであって説明の必要もないと思うが、従前の共謀罪審議においても、処罰の条件として共謀に加えて準備行為を要求することは検討されていたのである。従前の共謀罪が共謀のみで処罰することを所与の前提としていたかのような説明は誤解を招くものであるとの批判を免れない。今回の法案は、金田勝年法相の言うように「過去御審議をした際とは全く発想を変え」*7たものなどと評することはまったくできず、従来の共謀罪審議の延長線上、というよりはほとんど一歩も進んでいない地点に位置するものにすぎない。

おわりに

以上検討してきたとおり、今回の法案で新設される罪は、処罰のために必要とされる準備行為の(それ自体は「悪いこと」とは言いがたいという)性質等に照らしても、また過去の共謀罪との連続性が保たれているという点に照らしても、「共謀罪」と呼んでなんら差し支えのないものであると考える。むしろ今回の法案で新設される罪を「共謀罪」と呼ぶことに対し、「全くの誤り」であるなどと非難する態度こそが、悪質な印象操作であると言わざるを得ない。

*1:平成29年1月23日衆議院本会議における発言などを参照。

*2:平成29年1月26日衆議院予算委員会における金田勝年法相の発言などを参照。

*3:なお、以上については先日の記事を参照されたい。

*4:組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案(第193回国会閣法第64号)。

*5:平成29年2月2日衆議院予算委員会における発言。

*6:太字強調は引用者による。

*7:平成29年1月30日参議院予算委員会における発言。

共謀罪がわが国における刑法の基本原則を覆すということ

はじめに

いわゆる共謀罪については、つねづね議論が多岐にわたっており十分に整理されていないと感じてきた。先般ついに法案が提出されたことでもあるので、共謀罪をめぐる問題の所在について、なるべく分かりやすくまとめていきたい。

さしあたり今回は、共謀罪がわが国における刑法の基本原則を覆すということについて説明する。この点が、共謀罪をめぐる問題の核心であると言ってよかろうと思う。

わが国における刑法の基本原則 

ここでいうわが国における刑法の基本原則とは、簡単に言えば、「悪いことを実際に行ってはじめて処罰される」ということだ。つまり、原則的には、たとえば物を盗んだから窃盗として処罰される*1ということだ。

もちろんこれは、あくまでも原則である。先の例で言えば、物を盗もうとして失敗した場合にも、窃盗未遂として処罰されることはある*2

しかし第一に、未遂が成立するためには、「犯罪の実行に着手」することが必要とされている*3。実行の着手とはどのようなことをいうのかという点については、学説上対立があるが*4、一般的かつ大づかみな理解としては、結果発生の現実的な危険性を有する行為を開始することと捉えておけばよいだろう。窃盗で言えば、物色を開始した時点で、物を盗まれる現実的な危険性が生じているので、実行の着手があるという具合だ。したがって、未遂については、実行の着手それ自体が結果発生の現実的な危険を生ぜしめる「悪いこと」であり、その「悪いこと」を実際に行ったから処罰されるのだ、と言いうる点が留意されなければならない。

そして第二に、刑法は、このような未遂についてさえ、特別の規定がある場合に限って処罰するという謙抑的な姿勢をとっている*5。すでに注において条文を示しているが、窃盗(刑法235条)で言えば、刑法243条が、「第二百三十五条から第二百三十六条まで及び第二百三十八条から第二百四十一条までの罪の未遂は、罰する。*6と規定しているからこそ、未遂が処罰されるのである。したがって、仮に未遂について「悪いことを実際に行ったとは言えない」 と考えるとしても、あくまでもその処罰は、法律に特別の規定がある場合の例外として位置づけられるべきものにすぎない。

以上のとおり、わが国における刑法は、「悪いことを実際に行ってはじめて処罰される」という基本原則を堅持している。この原則から外れる未遂、あるいは予備、陰謀などは、特別の規定がある場合に限って処罰の対象となりうるにすぎないものである。

共謀罪が基本原則に及ぼす影響

さて、そこで今般の共謀罪である。提出された法案*7を見ると、以下のような規定になっている。

テロリズム集団その他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪遂行の計画)

第六条の二 次の各号に掲げる罪に当たる行為で、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団(団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるものをいう。次項において同じ。)の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、当該各号に定める刑に処する。ただし、実行に着手する前に自首した者は、その刑を減軽し、又は免除する。

一 別表第四に掲げる罪のうち、死刑又は無期若しくは長期十年を超える懲役若しくは禁錮の刑が定められているもの 五年以下の懲役又は禁錮

二 別表第四に掲げる罪のうち、長期四年以上十年以下の懲役又は禁錮の刑が定められているもの 二年以下の懲役又は禁錮

 詳細な検討は今後折を見て行っていきたいが、本記事との関係で着目するべきは、「準備行為」の内実だ。「資金又は物品の手配、関係場所の下見」との例示からも明らかなとおり、ここで想定される「準備行為」とは、結果発生の現実的危険性すら必要としないものである。ATMから資金を引き下ろす、関係場所の下見を行う等の、それ自体としてはなんの危険もなく「悪いこと」とは言いがたい行為が誰か一人によってなされれば、計画に加わった者全員を一網打尽にできるということだ。

そして、政府は重大犯罪に限られるなどと説明しているものの、かかる共謀罪の対象犯罪は、実に277にも及ぶ。本記事で例として用いてきた窃盗も、法案の別表第四第一号及び別表第三第二号ネに掲げられており、対象犯罪である。これはとうてい「一部」「例外」などとして片づけられる数ではない。

つまり、共謀罪は、わが国における刑法の基本原則を、「悪いことを行ったから罰する」から「悪いことをたくらんだから罰する」へと、変更しようとするものだと評してよかろう。

おわりに

以上のとおり、きわめて広範な犯罪を対象としてなんら現実的な危険が生じ得ない段階での処罰を可能とする共謀罪が、わが国における刑法が堅持してきた「悪いことを実際に行ってはじめて処罰される」という基本原則を覆すものであることは間違いない。「行ったから罰する」から「考えたから罰する」へと基本原則をシフトさせることが妥当なのか、備えるべき事項があるならば(共謀罪のように多数の犯罪を一括りにして対象とするのではなく)個別の法律で対応できないか。こうした点が共謀罪をめぐる問題の核心である。

*1:刑法235条。

*2:刑法243条、235条。

*3:刑法43条。

*4:興味のある方は刑法総論の基本書にあたられたい。

*5:刑法44条。

*6:太字強調は引用者による。

*7:組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案(第193回国会閣法第64号)。

稲田先生お気の毒、な事案の可能性はありますがね

以下の記事を読んだ。

稲田朋美防衛相、森友学園の訴訟を担当していた。過去の国会答弁と食い違い

要するに、稲田朋美森友学園の事件を受任したことはないと言っていたところ、同学園の訴訟代理人として稲田朋美が名を連ねている準備書面が出てきた、という話。

正直なところ、事務所事件に所属弁護士全員の名前をずらっと並べるのはよくある。で、実際にはその中の一人が担当弁護士として事件を処理することが多い。他の弁護士は、もちろん同じ事務所なので事実上ある程度事案を知っていたりすることもあるけど、まあ事件を処理する、という感じではまったくない。今回の稲田朋美も、そうした「担当じゃない弁護士」だった可能性はあるだろうし、そうだとすればちょっとお気の毒ですね、とは思う。

ただこれ、平成29年3月13日参院予算委での答弁を確認すると、森友学園の事件を受任したことはないと断言しちゃってるんだね。だとすると、まあそれはそうじゃないんじゃないかなあ、という話になりそう。実際に事件にタッチしていなくとも、建前としては受任しているからこそ準備書面に名を連ねているのであって、それが証拠に、たとえば担当弁護士が急用で出頭できないときや、たいして重要でないときには、準備書面に名を連ねている(担当ではない)事務所の若い勤務弁護士なんかに、かわりに裁判の期日に出てもらったりすることもある。こんなことができるのは曲がりなりにも事件を受任しているからこそであって、事件を受任もしていない者がいきなり期日に出頭することなんてできるはずがない。なので、少なくとも法的には事件を受任していることになるんだろうなあ、と。

まあ、お気の毒ではあるのかもしれないけれど、ちょっとうかつな答弁だったね、という話なのかな。脇が甘いというか。

過労と脳・心臓疾患

先日の記事で、いわゆる過労死ラインを説明するために、現行の「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の 認定基準」*1(以下、「現行基準」という。)に言及した。これが脳・心臓疾患を労災認定する際の基準として厚生労働省によって定められたものであることはその中ですでに述べた。もっとも、先日の記事では、記事の趣旨を外れることから、その判断枠組みの仔細についてまでは説明しなかった。現行基準を直接確認していただければ足りると思われるところではあるが、それ以前の基準等の紹介とあわせて、簡単にだけ説明を加えておくことにする。 

行基準では、脳・心臓疾患を労災認定するためには以下の要件を充足することが求められる。

次の(1)、(2)又は(3)の業務による明らかな過重負荷を受けたことにより発症した脳・心臓疾患は、労働基準法施行規則別表第1の2第9号に該当する疾病として取り扱う。

(1) 発症直前から前日までの間において、発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事(以下「異常な出来事」という。)に遭遇したこと。

(2) 発症に近接した時期において、特に過重な業務(以下「短期間の過重業務」という。)に就労したこと。

(3) 発症前の長期間にわたって、著しい疲労の蓄積をもたらす特に過重な業務(以下「長期間の過重業務」という。)に就労したこと。

ここで「発症に近接した時期」とは発症前おおむね1週間、「発症前の長期間」とは発症前おおむね6か月をいう。上記(2)や(3)における業務過重性の判断は、業務量、業務内容、作業環境等、さまざまな負荷要因を考慮してなされるが、特に(3)における判断にあたってふまえるべきこととされているのが、いわゆる過労死ラインである。 

これに対して、現行基準が定められる以前の基準(以下、「旧基準」という。)は、以下のようなものであった*2

次の(1)及び(2)のいずれの要件をも満たす脳血管疾患及び虚血性心疾患等は、労働基準法施行規則別表第1の2(以下「別表」という。)第9号に該当する疾患として取り扱うこと。

(1) 次に掲げるイ又はロの業務による明らかな過重負荷を発症前に受けたことが認められること。

イ 発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事(業務に関連する出来事に限る。)に遭遇したこと。

ロ 日常業務に比較して、特に過重な業務に就労したこと。

(2) 過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が、医学上妥当なものであること。

行基準と比較すれば明らかなとおり、旧基準では、「短期間の加重業務」と「長期間の加重業務」とが明確に区分されていない。旧基準の運用にあたっては、「発症前1週間より前の業務については、この業務だけで血管病変等の急激で著しい増悪に関連したとは判断し難いが、発症前1週間以内の業務が日常業務を相当程度超える場合には、発症前1週間より前の業務を含めて総合的に判断すること。」とされており、長期間の加重業務が健康に及ぼす影響について、十分に理解されていなかったのである。

当然のことながら、かかる旧基準に対しては、慢性の疲労等をより考慮するべきであるとする厳しい批判が加えられていた。また、現行基準が定められる前年の平成12年には、最高裁が慢性の疲労等と脳疾患(くも膜下出血)との間に相当因果関係を認める注目すべき判決を下していた*3。このような状況下で新たに定められたのが現行基準であり、「疲労の蓄積」という概念を明確に認めたところにその最大の意義があったものということができよう。

*1:http://www.mhlw.go.jp/shingi/2002/09/s0906-5b2.html

*2:http://labor.tank.jp/hoken/nintei/nou-sin_rousainintei08.html

*3:最判平成12年7月17日(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/785/062785_hanrei.pdf)。