「自称中立」でした

少し前にかつて「ネット右翼」だったという琉球新報記者についての記事がありましたが、私も10代のころは、「ネット右翼」ではないにせよ、少なくとも「自称中立」とか「冷笑主義」などと批判されるタイプの人間でした。私は幸いこんにちではそうした考え方から脱却できているつもりでいますが、なぜかつては「自称中立」「冷笑主義」だったのか、またどのようにしてそこから脱却できたのか、について語ることは、現在「自称中立」「冷笑主義」などと批判されている方、あるいはこれらを批判している方などにとって多少なりとも参考になるのではないかと思い、恥を忍んでふりかえってみます。

まずなぜかつては「自称中立」「冷笑主義」だったのか。

これは責任をなすりつけるような言い方になってしまうのでとてもいやなのですが、やはり社会のせい、というのはきわめて大きいと思います。丸山眞男が「日本の思想」において指摘した「思想が蓄積され構造化されることがない」というわが国の「伝統」は、ポストモダンが告げた「大きな物語」の終焉と結びついて、極端なシニシズムをもたらしました。小説、漫画、アニメ、ドラマ、バラエティ番組、音楽、とにかくほとんどあらゆるメディアにおいて「絶対的な正義などない」というようなことが喧伝され、「正義を唱えること」にはどこか一面的で浅い見方だとして軽んじられるような雰囲気がつきまとうようになりました。現在ネット上では、「正義」を唱えるやいなや「正義の暴走」だとか「お花畑」などと「批判」される方が次から次へとわいてきます(まさに彼らの行動こそが「暴走」と評されるにふさわしいのではないかと思われることもしばしばです)。個々の「批判」の当否は措くとしても、こうした状況それ自体が、わが国においていかに「正義を唱えること」への嫌悪感が強いかを示しています。そしてこれは昨日今日にはじまったことではなく、私がこどものころからずっとそうでした。違いはその舞台がネット上ではなかったというだけです。そのような社会で育った私が、何事に対しても斜にかまえ、相対化しては悦に入る「自称中立」「冷笑主義」的な人間になることは自然であったと思います。

もう1つ、「自称中立」「冷笑主義」が、楽して賢いつもりになれる立場だから、ということもあるかもしれません。何であれ、きちんとやるというのは大変なことです。世の中でいわゆる「普通の人」が論じる問題の多くは社会科学の分野に属するものだと思いますが、社会科学系の学問においてある程度まともなことを言おうと思えば、過去の議論を参照し、自身の主張あるいは批判対象となる主張がその中でどのように位置づけられるのか、といったことを確認するのが必須の作業となります(これが、「思想が蓄積され構造化される」ということの意味です)。ところが、「自称中立」「冷笑主義」の立場をとればその必要はない。ひたすらに抽象化と相対化をくり返すことによってその主張は蓄積された議論の文脈から遊離していく。これは、少なくとも社会科学の分野においては学問的意義を失うということに他なりませんが、同時に自らには議論の蓄積がないという事実と向き合わずにすむということでもあります。そしてそのようにして吐き出された放言でも、議論の蓄積がない発言者自身にとっては、議論の蓄積をふまえたまっとうな主張との質の差は分からない。だから、それで十分なにかたいしたことを言っているような気になれる、というわけです。わざわざ個々の議論の背景について勉強したうえで批判するよりも、楽してそれっぽいことを言える「自称中立」「冷笑主義」の立場をとることも、やはり自然であったと思います。

今からふり返ってみると、私が「自称中立」「冷笑主義」であったのは、おおむねこのような理由によるのではないかな、という気がします。では私はいかにしてそこから脱却できたのか。次にこの点について語っていきたいと思います。 

私が「自称中立」「冷笑主義」から脱却できたのは、大学時代の勉強(社会科学系です)のおかげだと思います。ただし、私が完全に自由な興味にしたがって勉強をしていたとすれば脱却は難しかったでしょう。たしかに、社会科学系の学問をしっかり修めたうえで社会についてまじめに考えるならば、「自称中立」「冷笑主義」は既存の努力によって築き上げられたものへのフリーライドであり、自らは何も生み出そうとしない無責任な立場であるという結論に至ることが多いだろうとは思うのですが、では単に社会科学分野の知識を与えられれば、あるいはこれに接する機会を持てば、「自称中立」「冷笑主義」から脱却できるのかというと、自身を省みても、そう簡単なものでもないような気がするのです。クラッパーは『マス・コミュニケーションの効果』において、人々の先有傾向を変化させるのはパーソナル・コミュニケーションであって、マス・コミュニケーションは先有傾向を補強するにとどまる、と指摘しました。これは乱暴に言ってしまえば、外部(ここでは身近でない者、というほどの意味です)からどれだけ知識を与えても、それが当人にとって気に食わない内容であれば聞く耳をもたれない、ということです。それがいかなる帰結をもたらすか、分かりやすく示した記事がこちら。自身の見解を補強する情報ばかりを収集し、批判は無視する。これではとうてい学びとは言えません。ここまで極端でないとしても、自由な興味にしたがって勉強すれば、どうしても知識は自身の見解に合致するものに偏りがちになるし、そうでない知識についても批判の材料として受け取られることが多くなるでしょう。しかし、批判の材料として受け取られるとはつまり、知識が手段として断片化されるということです。すでに述べたところからも明らかなとおり、社会科学系の学問を修めるとはつまりその体系(=蓄積された議論とその構造)を理解するということですので、断片的な知識をどれだけ収集しても、社会科学系の学問についての理解が深まるということは、残念ながらあまりないように思います。私の場合は、大学に入ってからある資格をとることを決め、その資格取得のためにある社会科学系の学問を修めなければならなかったので、否応なく体系的な知としてのそれに向き合うこととなったのがよかったのでしょう。

なぜかつては「自称中立」「冷笑主義」だったのか、またどのようにしてそこから脱却できたのか、ということについてお話ししてきました。最後に、関連するはてな用語について一言。はてなには、「たましいがわるい」という言葉があるようです。その語をめぐる議論をリアルタイムで追っていたわけではないので合っているかどうか不安ですが、私はこれを、「どれだけ前提知識を与えても、平易な言葉で説明しても、理解しない(できない、ではない)人はいる。その種の人の不理解は、結局のところ当人の心性に起因するのだ」ということをいうものだと理解しました。そのような趣旨であるとすれば、これはかなりの程度おっしゃるとおりだな、と思います。私自身の活発でないブログ運営においてさえ、そのように感じることは何度かありました。ただ同時に、「どれだけ前提知識を与えても」という点には、留保が必要だとも思います。その知識が断片的である、あるいは断片的なものとして受け取られる限りにおいては、たしかにどれだけ与えても意味がないかもしれません。しかし、体系的な知、学問の一部としての知識であれば、それは相手の心性をも変化させ理解に導く可能性があるような気がします。少なくとも私はそうだったのですから。もちろん、そのようなものを、そのようなものとして、相手に受け取ってもらう、というのがきわめて難しいということもすでに述べたとおりですが。私自身も失敗ばかりですし、人にものを伝えるのは本当に難しいな、と思います。とりとめもなくなってきたので、このあたりで。なにかの参考になればうれしいです。

「ポリコレ棒」について

このあたりからはじまる一連の記事*1*2とそれらに対する一部の反応を見て、うんざりした気分になっている。いったいいつまで「ポリコレ棒」などというばかばかしい概念は跋扈するのだろうか。この手のことばはとりあげて問題視することでかえって広まってしまう側面もあるので少し悩んだのだが、しかしやはり一度は批判しておく必要があるであろうから、「ポリコレ棒」という語を用いることによって生じ(う)る弊害について簡単にだけ記しておくことにする。それは、おおむね以下の二点である。

第一に、個別具体的な問題が軽視されがちになること。ある指摘に対して「それはポリコレ棒で殴るものだ」という類の批判(これを以下「PC批判」という。)がなされる場合、PC批判は当該指摘を勝手に抽象化してしまい、結果としてそこで問題とされている具体的事案には目を向けられないということが少なくない。たとえば、差別主義団体が街頭デモで「○○人は殺せ」などとシュプレヒコールをあげていることを厳しく指弾する言説に対して、PC批判は当該言説を「反差別」などと抽象化したうえで「声高に反差別を唱えることで物が言えなくなる」とお決まりの一般論を展開することがある。これは、本来問題とされるべき「○○人は殺せ」というシュプレヒコールから目を背け、言葉遊びに逃げ込んでいるものと評価されても仕方ないだろう。私はつねづね、ネット上の言説は具体的な事案と真摯に向き合う姿勢に欠ける傾向があるのではないかと主張してきた。PC批判はそのような傾向に拍車をかけるところがある。

第二に、主張の実質的な部分に対する評価と形式的な部分に対する評価とが混同されること。PC批判は主として主張の形式的な部分に対する否定的評価であるはずなのだが、その評価が実質的な部分まで巻き込んでしまっていることが少なくない。もともとポリティカルコレクトネスは、「建前としては正しい価値観が過剰に主張されることによって息苦しくなるのではないか」という形で問題とされた。主張の実質的な部分については正しいと同意したうえで、その主張のされようが過剰である、つまり主張の形式的な部分が誤っているとするものであったと言える。ところがPC批判は、たとえば「正義の暴走」などと主張の実質的な部分にリンクさせる形で批判を展開することがある。これは、批判として正鵠を射ていないというばかりでなく、問題の切り分けを見えづらくするという点において議論を停滞させるものとすら評しえよう。PC批判にはこのように議論の焦点を曖昧にするところがある。

なお第二の点に関連して、「正義を唱える者が不正義を行うことをより問題とするべきである」という類の主張が行われることがあるが、私はそう思わない。「主張の実質的な部分は正しいが形式的な部分が誤っている」場合と「主張の実質的な部分も形式的な部分もともに誤っている」場合とでは、非難されるべき度合いは後者の方が高いか少なくとも同程度であろうし、正しいと同意しているはずの部分についてまで難癖をつけるような物言いをするのはどう考えても生産的ではない。せいぜい「正義の暴走である」ではなく「その主張の仕方は不正義である」とでも言えば足りることだろう*3。類似の問題について過去記事ですでに言及しているので詳しくはそちらを参照してほしい。本記事では、過去記事でも引用した丸山眞男の「ある感想」という小文の一節を再び掲げるにとどめておく。これは、ネット上で「サヨク」だとか「リベラル」だと認識されている考え方*4の核心部分を端的に表現した文章だと思うので、一度は目を通していただきたい。なお、テキストは『丸山眞男セレクション』によった。引用中太字部分は原文で傍点の付されている文字である。

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

およそ「進歩」の立場で行動するものは、自らのなかに深く根ざす生活なり行動様式なりの「惰性」とたたかいながら同時に社会の「惰性」とたたかうというきわめて困難な課題を背負っている。高いものをとろうとする者はとかく重心を失って姿勢がよろけがちになる。最もよろける危険のない体勢ということになれば、一番重心を低くした――つまり寝そべった姿勢に若くはない。しかし自分は初めから寝そべったままで、高いものに手をのばす者の姿勢の崩れをわらったところでそれは「批判」にはならないだろう。況んや下から足をひっぱるにおいてをや。

以上、「ポリコレ棒」という語を用いることによって生じ(う)る弊害について簡単に説明してきた。この語がこうした弊害を甘受してまで用いる必要のあるものだとは、私にはとても思われない。なにかの参考になれば幸いである。 

*1:http://pokonan.hatenablog.com/entry/2018/04/07/172318

*2:http://yuhka-uno.hatenablog.com/entry/2018/04/08/130112

*3:もっとも、PC批判が標的としている言説で、私自身がそのように感じるものはほとんどないことを念のために述べておく。

*4:私自身は必ずしもそのように認識しないのだが。

自首、ではないですか

id:scopedogさんの以下の記事に接した。

2件の殺人で懲役4年なら十分な温情判決だと思うが - 誰かの妄想・はてなブログ版

義父から性的虐待を受け続けた女性が生まれた子2人を殺害した事件で地裁が懲役4年の実刑判決を言い渡したことに対してつけられたブックマークコメントを批判する内容だ。

判断をなしうるだけの情報を有していないため私自身の判決に対する評価は避けるが、一般論として2人を殺害したことは重大であるというscopedogさんの指摘は正当であると思うし、ろくに知識もない(であろう)のに判決に対して罵詈雑言を投げつけるブックマークコメントの狂乱ぶりも憂慮するべきものであると思う。ただ、記事には誤解を招きかねない点もあるように思われたので、その点についてだけ簡単にふれておきたい。

scopedogさんは、刑法66条および同法68条3号を挙げつつ、「殺人罪の法定刑は死刑または無期もしくは5年以上の懲役であるところ、本件判決では懲役4年が言い渡されているため、情状を酌量して減軽していると言える」とする。しかし産経の記事*1によると、本件において情状酌量はされなかったとのことだ。報道機関による法律用語の用い方などいいかげんなものであり、単に弁護側が求める執行猶予つきの判決が出なかったことをもって「情状酌量されず」などと書いている可能性もあるが、私自身も酌量減軽はされていないのではないか、と思う。懲役4年の判決が言い渡されているにもかかわらず、なぜそう考えるのか。それは、上記産経記事中に女性は自首したものであった旨が記載されているからだ。

刑の減軽には、法律上の減軽と酌量減軽があり、法律上の減軽等の操作を経てなおその最下限より刑を軽くする必要がある場合に、酌量減軽(刑法66条「犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、その刑を減軽することができる。」)が行われる。scopedogさんが記事中でふれていた心神耗弱(刑法39条2項)や、自首(刑法42条1項)等が、法律上の減軽事由にあたる。女性が自首したというのであれば、判決が懲役4年となったのは、自首したことによって法律上の減軽がなされたためだと思われる。

なお、たとえ酌量減軽が行われていないとしても、女性の事情が情状事実として量刑上考慮されていることは当然である。

*1:https://www.sankei.com/premium/news/180307/prm1803070003-n1.html

森友/麻生/ネット世論

麻生太郎が「森友の方がTPPより重大だと考えているのが、日本の新聞のレベル」と発言したそうだ*1。これはかつてネット上で山ほど見られた、いわゆる森友問題に些事のレッテルを貼ろうとする類の主張である。「森友問題なんかより重要な問題が」 式のアレだが、ネット上でさえこの手の主張を見かけることが稀となったこんにち、参議院財政金融委員会という責任ある発言を求められる場において、副総理兼財務大臣がこのような発言をしたのだから驚く。「ネット世論」を周回遅れで追いかける大臣というのも、なかなかぞっとしない話だ。

もっとも、麻生のこの発言には批判が集中し、翌日には訂正・謝罪に追い込まれたという*2。いまや市民の大多数が問題の重大性を認識していることの証左だろう。身内である自民党からも麻生発言に対する批判の声があがったとのことで*3、ようやくここまでたどり着いたかと感慨深い思いもある。まだまだ道半ばではあろうが、倦むことなく問題を追及し続けた関係各位の努力に感謝し、敬意を表する。

ところで、こうして周回遅れの麻生発言を見ていてふと気になったのだが、かつて森友問題を些事扱いしていたネット上の方々は、どこかで立場の転換を表明しておられるのだろうか。見たところ彼らの多くは、事態の深刻さが明らかになってきて以降、問題の重大性自体は前提としつつ、「これは財務省限りの問題である」という形で政権との切断を試みておられるようだ。安倍自身でさえ「行政の長として責任を痛感している」と述べている状況下にあって*4、かかる試みが成功するとは考えにくいが、ともあれ森友問題自体は些事でなく重大事であるとの立場に転じるということであれば、その旨表明されたほうがよいのではないか。また森友問題を些事とする声の中には「野党やマスコミは森友問題のような些事を殊更にとりあげて足を引っ張っている」という趣旨のものもあったように記憶しているが、「野党やマスコミ」がこうした声に屈し追及をあきらめていたならばこの重大問題が闇に葬られることともなりかねなかったわけであるから、こうした向きにあってはよく己を顧み、必要に応じて反省の弁を述べるということもあってよいだろう。

私は寡聞にして、森友問題を些事扱いしていた方が立場の転換なり反省なりを表明している例に接したことはないのだが、こうしたふるまいをできる誠実な方の意見には、たとえ同意できずとも傾聴する価値があると思うので、そのような論者を知っているという方があれば、ご教示いただけると幸いである。

*1:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180329/k10011384101000.html

*2:https://www.asahi.com/articles/ASL3Z3G8VL3ZULFA004.html

*3:https://www.asahi.com/articles/ASL3Z6KNFL3ZUTFK03B.html

*4:https://www.asahi.com/articles/ASL3D5J2LL3DUTFK01Q.html

竹内は断定していたのでは

別冊正論31号が「日本型リベラルの化けの皮」というテーマで特集を組んでいるのだが、その中に竹内久美子の「動物学で日本型リベラルを看ると―睾丸が小さい男はなりやすい!!」という記事が収められているようだ。

産経正論・竹内久美子氏「動物学で日本型リベラルを看ると―睾丸が小さい男はなりやすい!!」がすごい模様 - NAVER まとめ

この手の記事を「ネタ」的に消費するのはあまりよくないのかもしれないが、私自身はタイトルを見たときにばかばかしさで吹き出してしまった口であり、どうにも真面目にとりあう気持ちになれないので、内容に対する批判は心ある方が行うのをまちたいと思う。

ところで、上記のまとめでは記事タイトルが「動物学で日本型リベラルを看ると―睾丸が小さい男はなりやすい!!」とされており、商品詳細ページから目次を確認してもそれで正しいようだ。しかし私はこのまとめに接する前に、購読している読売新聞に掲載されていた別冊正論の広告でこの記事の存在を認識しており、そのときには微妙に異なるタイトルだった気がしたので確認したところ、やはり広告では「睾丸が小さい男はなりやすい!?」とされていた。「!!」が「!?」にされていたのである。

「!!」と「!?」ではかなりニュアンスが異なる。「!!」は強い断定の表現であり、このような表現を用いることには相当な勇気を要するはずだ(少なくとも私はそうである)。注目を集めるために「!?」を「!!」に変えたというのであればまだしも、竹内が勇気を持って「睾丸が小さい男はなりやすい!!」と断言したものを「睾丸が小さい男はなりやすい!?」などと日和るのは、いかにも軟弱であるし、竹内に対しても失礼ではないか。このようなブッ飛んだ記事を収める以上、著者たる竹内の侠気に殉じるくらいの心構えは持ってもらいたいものだ。

対話の作法

前回記事への反応としてチャタレイ事件に言及するものがいくつかあったのだが、同事件の意義ないし問題点を理解されているかどうか若干疑わしいように思えたので、時間がとれればこれを説明する記事を書きたい。ただ、このところは他にすることがあるうえ、時期的にむしろ君が代の起立斉唱命令について論じたい気持ちの方が強いので*1、結局は書かずに終わってしまうかもしれない。

ともあれ今回は、そうした内実のある話をする前提として、主張のやりとりを行う際に最低限留意してほしい事項を簡単にだけ述べておく。以下の2点である。

  • 自身の主張が相手に正しく伝わるよう心がける
  • 相手の主張を正しく理解するよう心がける

1点目については、私自身も前回記事に関して反省するべき点があると思いながら記している。私は前回記事において以下のように述べた。

本来的には私的領域に属し、公共的利害に関係しない性表現は、これによって政治的意思決定に関与するといった「自己統治の価値」を有するものとは言いがたい。

この一文が間違っているわけではないが、ここで私が「公共的利害に関係しない」との表現を用いたために、人権制約の一般原理たる「公共の福祉」との混同に基づく反応を誘発してしまったことは否めないだろう。「自己統治の価値」との関係で言及している以上、いわゆる「公共の福祉」論と文脈が異なることは自明であろうと安易に考えてしまったが、法教育を受けていない方がしかるべき切り分けをできないのは当然であり、これは私の落ち度である。「公共的利害に関係しない」と殊更に述べずとも文意は変わらないのであるから、この文言は削るべきであった。

2点目について、「相手の主張を正しく理解する」とは、「読みとるべきことを読みとる」ことと「読みとれないことを読みとらない」ことから成るが、失礼ながらいずれもできていない方がかなり多いという印象だ。前回記事への反応を見ても、最初の数行さえ読み通せていないのではないかと思われるものが相当数あったが、これは単純な能力の不足というばかりでなく、最初から相手が誤っているという前提で主張に接していることに起因する部分も大きいのではないかという気がする。主張に対してフラットに接することができればそれが一番良いのだろうが、それが難しいならば実際的な対処法として、まずは「相手が正しく、理解できないのは自身の能力不足が原因である」という前提で主張に接してみることをおすすめしたい。こうした手法は、自身より明らかに学識がある者と主張のやりとりを行うときには特に有効である。わが国では「疑問を持つこと」の重要性ばかりが強調されており、それは確かに重要ではあるのだが、本当に最初の段階では与えられるものを素直に吸収することからはじめる必要がある。守破離の「守」を経ずしてその先のことをやろうとしてもうまくいかない場合が多いということは、心にとどめておいていただきたい。

 

以上、主張のやりとりを行う際に留意していただきたい事項について述べてきた。このような言わずもがなのことを改めて述べるのは気恥ずかしく、申し訳ない気持ちさえあるのだが、しかし重要なことではあるので、ご容赦願いたい。 

*1:去年も論じたいと思いながら他事にかまけ手つかずのまま再びこの時期をむかえてしまった。

性表現の自由って重要?

先日、女性の太ももの写真を展示するイベントが中止されたという話題に接し、性表現の自由について書いてみることにした。ただし、あの話題自体はここで述べることとは異なる枠組みで処理するべきものであり、本記事とはほとんど関係がない(記事作成のきっかけになったというにすぎない)。また、本記事は性表現の規制を主張するものではもちろんないし、性表現に対して強い保障を与える必要はないと主張するものですらない。本記事の目的は、ほとんど自明であるかのように巷間主張されている「表現の自由の重要性」について、改めて考える機会を提供することである。

 

性表現は、本当に重要なのだろうか。 

表現の自由の重要性が古くから指摘されてきたことは事実である。しかしそこでいう「表現」とは、性表現のようなものではなく、政治的表現に代表されるような社会的意義を有する表現であった。

今日、表現の自由にかかる憲法21条は以下のように規定する。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

ここでは、表現の内容について留保が付されていない。したがって、保護範囲内であるかどうかが問題となるいくつかのカテゴリーはありうるとしても、同条が政治的なものに限らず、相当広い範囲で表現を保障している、ということは確かである。

しかしわが国では、表現の自由をきわめて重視し、特に強い保障を与えるべきであるとする見解が広く支持されているところ、その根拠をたずねれば、今日においても表現の有する社会的意義は重要な要素として考慮されていることが分かる。

たとえば上記のような見解を代表するものとして、二重の基準論と呼ばれる考え方がある*1。これは、表現の自由(を中心とする精神的自由権)は経済的自由権に比して厳格な基準によってその合憲性を審査されなければならないとする考え方である。

このような考え方をとる最大の根拠は、表現の自由の重要性に求められる。すなわち、人はさまざまな情報に自由に接して思索を深め、あるいは自ら意見を述べて主張をたたかわせること等によって、人格を形成、発展させ、自己実現をはたす。この点において、表現の自由は重要な価値を有する(自己実現の価値)。さらに、人は自らの意見を表明することによって政治的な意思決定に関与していくのであり、自由な言論は民主主義過程の維持にとって不可欠なものと言える。したがってこの点においても、表現の自由は重要な価値を有する(自己統治の価値)。これらの重要な価値のゆえに、表現の自由には優越的な地位が認められ、その規制は慎重に行われねばならないというのである。そしてここにいう「自己統治の価値」が表現の有する社会的意義に着目したものであることは、多言を要しないだろう。

なお、このような考え方をとる根拠として裁判所の審査能力の限界ということも指摘される。経済的自由権の制約を検討するにあたっては社会・経済政策的考慮が必要とされるところ、裁判所には政策的な考慮を行う能力が欠けており、基本的には立法府の判断を尊重せねばならないというものである。ただしかかる指摘は、経済的自由権に対する制約のうち、経済発展等を目的とするものについてはおおむねそのように言えるとしても、たとえば国民の生命・健康を保護する目的でなされるものについては裁判所による審査は比較的容易であって妥当しないというケースも多いのではないかと思われる。経済的自由権全体について妥当するものとは必ずしも言えない以上、これを二重の基準論の主たる根拠とすることはできないだろう。

さて、以上をふまえたうえで性表現について考えてみよう。個人的な価値たる「自己実現の価値」は、性表現であっても当然に認められる。しかし、本来的には私的領域に属し、公共的利害に関係しない性表現は、これによって政治的意思決定に関与するといった「自己統治の価値」を有するものとは言いがたい。性表現は、表現の自由が有するとされる重要な2つの価値のうち一方を欠くのである。

表現の自由上記のとおり 「自己統治の価値」を欠くにもかかわらず強い保障を与えられるべきであるとすれば、たとえ「自己統治の価値」を欠くとしてもなお、精神的自由権たる性表現の自由経済的自由権よりも重要であるから、という理由づけも考えうるところである。しかし、たとえば憲法22条1項は経済的自由権たる職業選択の自由等を保障しているところ、判例*2も職業について、「各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである」としており、その「自己実現の価値」を認めている。「自己実現の価値」は、精神的自由権のみならず経済的自由権も有するのである。また、経済的自由権の行使によってしっかりとした生活基盤を築くことは、精神的自由権を十全に行使するうえできわめて重要な意義を有するとも考えうるところである。こうした点をふまえるならば、経済的自由権が精神的自由権に劣後することを当然視するような考え方は、やはりとりがたいだろう。

なお、「表現の自由は一度毀損すれば回復が困難な権利であるために強く保障するべきなのだ」という類の主張がなされることもあるが、これは、「民主政において誤った規制は本来、市民間の討論(=表現)を経て形成され政治に示された主権者の意思によって是正される。しかるところ、表現の規制は主権者意思の形成過程を傷つけるものであるから、ひとたびこれが行われれば、主権者意思の形成自体が困難となり、容易に是正できなくなる」との趣旨をいうものである。したがって、私的領域にとどまり政治的意思の形成に寄与しない、つまりは「自己統治の価値」を有しない性表現との関係において、かかる主張をさして考慮する必要はない。

このように考えてみると、表現の自由が強く保障されるべき根拠としてよく挙げられるもののみでは、性表現に対して強い保障を与えるに十分でないようにも見える。それにもかかわらず、性表現にはやはり(他の権利に比して)強い保障を与えるべきなのだろうか。そうであるならば、その根拠はいかなる点に求められるのだろうか。これを機に、考えを深めていただければ幸いである。

*1:芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)103頁以下、186頁以下。

*2:最大判昭和50年4月30日(民集29巻4号572頁)。