憲法が未完であるということ

奥平康弘先生死去の報に接した*1

記事では、「憲法はつねに未完であり、世代を超えていきいきとした社会をつくるために憲法は必要なのだ」という先生の言葉が紹介されていた。

憲法が未完であるとはどういう事か。

この点に関して、先生は『未完の憲法』の中で以下のように述べている。

未完の憲法

未完の憲法

 

 僕はよく、「憲法というものは世代を超えた国民が、絶えず未完成部分を残しつつその実現を図っていくコンセプトである」という言い方をします。「したがって、憲法はつねに未完でありつづけるが、だからこそ、世代を超えていきいきと生きていく社会をつくるために、憲法は必要なのだ」と……。(同書35頁)

「未完成部分を残しつつその実現を図っていく」

それは、憲法典に環境権等のいわゆる新しい人権が規定されていないから、あるいは憲法が現実にそぐわないからと言って安易に憲法を改正しようとすることではない*2。そうではなく、憲法の根底にある精神のようなものを、日々生起するさまざまな問題に及ぼそうと努力することをいうものだろう。そのことは、同書の以下の部分からも読み取ることができる。

熱海の温泉宿などでは、昔から「刺青の方、入浴ご遠慮ください」なんて表示がしてあって、そのことが特段問題にはならなかったわけです。民事訴訟の問題にすらならなかった。しかし、少数民族のケースが出てきたことによって、これまでは問題にすらならなかった「刺青おことわり」という表示についても、改めて考えるきっかけになったわけです。自分の体に刺青をすることは自由なのか? その刺青を不特定多数の人々の前にさらすことは自由なのか? 逆に、刺青の人を入場禁止にすることは「表現の自由」の侵害に当たるのか? (同書102頁)

従来は意識されてこなかった公衆浴場と刺青をめぐる表現の自由という問題が、固有の文化として刺青を入れる少数民族の増加等によって表面化する。その表面化した問題に対し、憲法の精神をふまえて誠実に向きあう――そんな姿勢を、先生の言葉からはうかがうことができる。環境権にしても同様だ。従来は意識すらされてこなかった環境権という概念に、深刻化する公害問題や環境保護への意識の高まりを契機として真摯に向きあい、憲法13条や25条を手がかりとしてその実現を模索する。このような姿勢こそが「未完成部分を残しつつその実現を図っていく」ことなのだと、私は考える。

ワイマール憲法の例をひくまでもなく、憲法典にどれだけ立派な規定が設けられていようとも、それだけでは何の意味もない。重要なのは憲法の根底にある精神とでも言うべきものを、あまねく社会にいきわたらせることだ。そしてそれは、絶えず変化していく社会にあって決して終わることのない挑戦なのだ。だからこそ、憲法はつねに未完であり、われわれはその実現のために努力し続けねばならないのである。

 

先生のご遺志を継ぐ、などという大それたことはとても言えませんが、私も未完の憲法に新たな何かを積み上げることができるよう精進を重ねていきます。

安らかにお眠りください。

*1:http://www.asahi.com/articles/ASH1Z5QGFH1ZUTIL03G.html

*2:「安易に」という限定に注意。先生は憲法改正に絶対反対という立場ではなく、「僕には僕なりの憲法改正論があります。」(同書43頁)と述べている。