id:ohnosakiko(以下、「大野さん」という。)の以下の記事を読んだ。
「教えて下さってありがとうございました!」と「悪いということを知らなかったんだから」 - Ohnoblog 2
詳細は元記事を参照してもらいたいが、要するにレポートの代筆をめぐるいざこざについての記事である。大野さんは時折授業内でミニレポートの作成・提出を課し、そのレポートの提出をもって出席票にかえていた。あるときレポートの代筆が発覚し、大野さんは、代筆を行った「主犯」のAとその余の代筆してもらった者らに対して、当日の出席取消しを告げた。これに対して、Aが「自分は代筆が悪いこととは知らなかった。それなのに出席停止というのはやりすぎだ」と主張した。この主張に対して、大野さんはいろいろ考えさせられた、というような内容だ。
この元記事の中で大野さんは「不正行為に対しては罰を受けるのが当然。それは知らなかったとか関係ない」とする。これは、刑法総論でいうところの「違法性の意識の要否」に対応する問題であろうが、このように明快に断定できるものでもないように思う。
「違法性の意識の要否」の問題とは、「ある故意行為を罰するために、行為者がその行為について違法性の意識を有していることは必要か。必要であるとすれば、それはいかなる要件として必要か(体系上どのように位置づけられるか)」という問題である*1。実務上は違法性の意識を不要とする立場がほぼ固まっているものの、これに対してはさまざまな異論がとなえられている。異論の逐一をここで紹介することはしないが、違法性の意識を不要とする立場に対する根幹的な批判は、「責任主義に反する」というものだ。
「責任主義」とは、「責任(非難可能性)なければ刑罰なし」とする考え方で、近代刑法の基本原則とされる。心神喪失者の行為は罰しないとされている*2ことを想起すると分かりやすい。
こうした考え方を徹底していけば、「ある故意行為を罰するためには、当該行為についての違法性の意識を要する」との結論にたどりつくのは自然なことだ。たとえば、故意責任の本質を「規範に直面して反対動機を形成しながら、あえてこれを乗り越えて実行に及ぶ」点に求めるオーソドックスな立場を突き詰めれば、「違法性の意識がなければ(=規範に直面していなければ)、反対動機が形成されない以上(あえてこれを乗り越えて実行に及んだとして非難することはできず)、故意責任を問うことはできない」ということになる*3。
以上のような議論を元記事の事案にスライドさせると*4、「違法性の意識の欠缺」が「悪いということを知らなかった」におおむね対応するものと言ってよかろう。そうすると、責任主義的な見地からの考察、すなわち「悪いということを知らず、したがって反対動機を形成する機会のない者に、非難可能性を見出すことができるのか」という思索は、当然なされなければならないはずである。あっけらかんと「不正行為に対しては罰を受けるのが当然。それは知らなかったとか関係ない」と言い放つことに、少なくとも私は多少の不安を覚える。
注意
元記事を読んで私が述べたかったことは以上で尽きているのだが、これだけだと誤解を生むおそれもあるように思うので、さらに若干の点を注意的に記しておきたい。
本記事が取り扱っている処分
元記事の事案でなされた処分は二種類に分けられる。A以外の者に対する出席取消しと、Aに対する出席取消しだ。前者は、要するに「従前出席ありとしていたが、出席していなかったことが判明したのでこれを取り消した」というものであるから、そもそもこれを「罰」という枠組みで取り扱うことは、(できないわけではないにせよ)必ずしも適当でない。これに対して後者は、「実際に当日出席し、レポートも自ら作成・提出しているにもかかわらず出席を取り消す」というのであるから、まごう方なく「罰」である。本記事が取り扱っているのは、当然後者である。
大野さんの処分の妥当性
私は、少なくとも元記事を読む限り、大野さんが行った処分にまったく問題はないと考えている(もっと重くてもよいかもしれない)。
本文中では「故意が認められるためには違法性の意識が必要である」とする厳格故意説のみをとりあげたが、「責任主義的な見地に立っても、故意を認めるために違法性の意識までは必要なく、違法性の意識の可能性で足りる」とする制限故意説の方が、学説においてもむしろ優位であり、私自身も違法性の意識の可能性があるならば非難は可能であろうと考える。こうした考え方を元記事の事案にスライドさせたとき、当該事案においても「悪いことだと知る可能性」程度は優に認められるものと思われ、そうであれば非難は十分可能であろう。
というよりは、剽窃やいわゆる代返が許されないというのは広く浸透している社会常識であるうえ、元記事コメント欄でのやりとりを見るに前者については不正であることを授業のはじめに伝えたとのことであるから*5、厳格故意説的に、ある行為を罰するには「それが悪いことだと知っていた」ことまで必要だと解する立場をとったとしても、「Aはそれが悪いことだと知っていた」と認定することは、おそらくたやすい。
私が気になったのは、今回の件にかかるそうした個別具体的な処分の妥当性ではなく、「悪いことだと知らないこと」が非難可能性に及ぼす影響について、大野さんがやや無頓着に見えたという点なのだ。