「死刑廃止国では現場射殺」はなぜダメか

はじめに

死刑制度の存廃に関する話題で、「死刑廃止国では現場で犯人を射殺している」という類のコメントを見かけることがある。これらの多くは主張の体すらなしておらず、まともに取り合う者などほとんどいないと思っていたのだが、必ずしもそうではないようだ。

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この種のコメントに共感する方が多いというのであれば、ばかばかしいと一笑に付するわけにもいかない。本記事では、この種のコメントのどこが問題であるかを説明するとともに、これをどのように改善すれば主張として意義あるものとできるかということについて考えを記しておきたい。

根拠条文を示そう 

まず問題とされなければならないのは、「現場射殺」という語が指し示すものの曖昧さだ。「現場射殺」はいかなる要件の下で行われるのか。それは刑の執行として行われるものなのか、それとも制圧の手段から結果として生じるものなのか。仮にも死刑という法制度と対比しようというのであれば、「現場射殺」についても法制度上どのように位置づけられるものであるかを明らかにすることが欠かせない。これは、もちろん誠実に説明しようとすればいくらでも労力を費やすことはできるのだが、とりあえず最低限の水準としては根拠条文(「現場射殺」が何法の何条に基づいて行われるのか)を示せば足りるだろう。

ところが管見の限り、この種のコメントにおいては、最低限の水準である根拠条文の提示を行うものさえ皆無である。この種のコメントを多少なりとも価値のある主張にしたいのであれば、まず前提として「現場射殺」の根拠条文を示すべきである。

趣旨を明らかにしよう

次に問題となるのは、この種のコメントの趣旨が不明瞭である点だ。きわめて多くのコメントが「死刑廃止国では現場で犯人を射殺している」と言い放つのみであるが、これ自体はいかなる主張でもない。そのことから、いったい何が言いたいのか。それを明らかにする必要がある。

この種のコメントのうち少し詳しいものでは、「死刑も現場射殺も国家による殺人という点で共通している」、あるいは「死刑の代替として現場射殺が行われている」などとしているようだが、やはり死刑存置の主張としては不十分である。なぜ不十分か。それは、「だから死刑を存置するべきである」ということにはならないからだ。

つねづね述べていることだが、「あいつもやってるのに」は子どもがダダをこねるのと同じであって、まともな大人のふるまいではない*1。仮に、死刑も「現場射殺」も同じようなものであり、死刑廃止国でも「現場射殺」が行われているとして、なぜ「現場射殺をやめよ」ではなく「死刑を存置せよ」という話になるのか。その理由まで明らかにしてはじめて、死刑存置の主張としては体裁が整うことになる。

死刑と現場射殺との関係にかかる留意点

上記の条件を充足することで主張の骨格は完成するが、これに肉付けを行うにあたっての留意点を記しておく。

「死刑も現場射殺も国家による殺人」という括りを行う場合には、むしろ死刑存置論者がこそがよく口にするところの「人権の比較衡量(被害者と加害者どちらが大切なのか)」という視点が欠けてはいないか、ということをよく吟味する必要がある。この点については過去記事ですでに述べているので詳しくはそちらを参照していただきたいが、一般に死刑が行われる場合、すでに犯罪は行われ、被害は生じてしまっている。死刑によって他者(被害者)の生命・身体が保護されるという関係にはない。これに対し「現場射殺」の場合、(実際どうなのかは今後根拠条文を示したまともな主張を展開する方が明らかにしてくださるだろうが)おそらく他者の生命・身体等に危険が生じていることが要件とされ「現場射殺」によって他者の生命・身体等への危険が解消されるという関係にあるものと思われる。このような場合に加害者の生命よりも他者(被害者)のそれを優先するというのは、日本も含めおそらくあらゆる国がとる態度であり、死刑廃止論者もかかる態度に対して異を唱えるものではない。無論、「現場射殺」判断の適否については慎重な考慮がなされなければならないが、それは制度運用面での問題であって、制度設計とは次元が異なる。こうした関係の違いにもかかわらず、なお「死刑も現場射殺も同じ」と言えるのか、という点に配慮した主張展開が求められるのだ。

「現場射殺は死刑の代替」とする場合には、まず死刑廃止と「現場射殺」との関係に注目する必要がある。死刑廃止前に「現場射殺」について規定する法がなく廃止後新たに設けられたとか、あるいは死刑廃止によって「現場射殺」が激増したというのであれば、「現場射殺」は少なくとも事実上死刑の代替としての機能を果たしたと言いやすいだろうし、そのような事実がなければ「現場射殺は死刑の代替」とは言いにくいだろう。また、それぞれの対象となったのがどのような者かという点にも注意を要する。たとえばオウムの麻原が確定判決において認定された犯行は、いかなる国においても最も重い刑罰をもって臨まれるものであろうが、彼は逮捕時瞑想にふけり抵抗のそぶりはなかったという。このような人物に対して「現場射殺」を行えない一方で、比較的軽微な罪を犯した者であってもその抵抗が激しいために「現場射殺」が行えるとすれば、死刑と「現場射殺」とは異なる機能を営むものというべきだろう。「対象の殺害」という点だけにとらわれず、一方の存廃が他方に及ぼす影響や、殺害の対象となる者の相違等にも注目した主張展開が求められるということだ。

おわりに

以上、「死刑廃止国では現場で犯人を射殺している」という類のコメントの問題点と、これをどのように改善するべきか、ということについて簡単に説明した。本記事をふまえて実りある主張をしていただければ幸いである。