被告人は聖人ではない

レジナルド・ハドリン監督『マーシャル 法廷を変えた男』(2017年公開)を見た感想を記す。内容への言及を含む。

白人女性エリー・ストルービングを強姦したうえ殺害せんとしたとして起訴された彼女の家の黒人運転手ジョゼフ・スペルを、サム・フリードマンがサーグッド・マーシャルの助力を得ながら弁護する。自分は無実であり、犯行時刻と近い時間帯に一人で車を運転しているところを警察官に呼び止められ免許証を見せたというアリバイもあると主張するスペルの言葉を信じ、奮闘するマーシャルたち。スペルの言葉を裏づけるように、たしかに一人で運転する彼を呼び止めたという警察官も現れ、当初マーシャルらの戦いは有利に進んでいるようにも見えた。ところが裁判が進む中で、ストルービング夫人は「スペルが警察官に呼び止められた際自分も同乗していたが、彼に伏せているよう脅されこれに従っていたため警察官は気づかなかった」旨を証言し、たしかにスペルが警察官に呼び止められた際彼女は同乗していたということが明らかになる。スペルは嘘を吐いていたのだ。

後にアメリカ史上初の黒人最高裁判事となるサーグッド・マーシャルを描くが、あまり細かいことを気にせずエンターテイメントとして楽しめる法廷劇である。ただ、非常に重要な教訓も含んでいる。それは、被告人は聖人ではない、ということだ。スペルがそうであったように、前歴があったり素行が不良であったりする被告人は多い。そして、スペルのように味方である弁護士に対してさえ嘘を吐く被告人も珍しくはない。聖人でないどころか、むしろ「不良市民」とでも呼ぶべき人物の方が多いとさえ言えるかもしれない。しかし当然ながら、「不良市民」であるということと有罪であるということとはまったく別の問題である。たとえ問題を抱える人物であっても弁護人を依頼して公平な裁判を受ける権利があるし、身に覚えのない罪で罰せられたり不当に重く罰せられたりしてはならない。というよりも、そうした問題ゆえに指弾され疑われるような立場にある者のためにこそ、こうした権利等は保障されなければならない。いつだって蔑ろにされるのは、誰からも好かれるような者ではなく、嫌われ者、鼻つまみ者なのだから。「不良市民」であっても、否、「不良市民」にこそ権利保障を。それは人種も国も越えた、正義である。 

君が代不起立での再雇用拒否は何が問題か

君が代斉唱の際に起立等をしなかった都立高校の元教員ら22人の再雇用等拒否にかかる裁判で、19日、最高裁が、1,2審をくつがえし、再雇用等を行わなかったことは裁量の範囲内であると判断したとの報道と、それに対する反応に接した。

君が代不起立で再雇用せず 元教職員が逆転敗訴 最高裁 | NHKニュース

はてなブックマーク - 君が代不起立で再雇用せず 元教職員が逆転敗訴 最高裁 | NHKニュース

この問題についてはいずれまとまったものを書くつもりなので今回詳しく論じることはしないが、あまり理解できていない方が多いようなので、本件がどういう問題なのか、ということだけ簡単に説明しておく。

そもそも本件における再任用制度は、その導入にあたり、いわゆる満額年金の支給開始年齢を引き上げる年金制度の改正にあわせて定年後の雇用確保を目的とするものと説明されてきた。やや不正確ではあるが、大雑把に言えば、定年から支給開始年齢までの空白期間を埋めるための制度であったということだ。

このような沿革もあって、本件における再雇用制度等は、定年後の職員の雇用確保や生活安定をも目的としており、きわめて高い採用率を示していた。この点、最高裁判決は「(当時再雇用を)希望する者が原則として全員採用されるという運用が確立していたということはできない」旨をいうのであるが、平成12年度から平成21年度までにおいて再雇用等を新規に希望する者のうちおおむね90%から95%程度以上が採用されていたとの実態からは、再雇用に対する期待がなんらかの形で保護されてよいのではないかとも思えるところである。1,2審はこうした期待の保護を前面に打ち出すものであり、最高裁はそうではなかった。

そして、再雇用制度等において採用の判断に際し一定の裁量が認められるとしても、その判断が多種多様な要素を総合的に考慮したうえで行われるべきことは当然である。仮に、特定の要素を不当に重視したり、考慮するべき要素を考慮しなかったり、といった恣意的な判断がなされたとしたならば、それは裁量権の範囲を逸脱しまたはこれを濫用したものとなる可能性がある。1,2審は不起立等の職務命令違反のみをもって*1不採用とすることは裁量権の範囲を逸脱しまたはこれを濫用するものであるとし、最高裁は広範な裁量を認めて裁量の範囲内であるとした。

なおこの点に関連して参考までに述べておくと、元教員らが選考申込みをした3年間において、不起立等をした者は100%不合格等となり、その他の者については申し込みさえすれば98%超の割合で採用されていたようだ。また、 裁判において認定されているとおり、元教員らの不起立等は消極的な態様にとどまり、式の進行を阻害するようなものではなかった。このような不起立等によって戒告処分とされたにとどまる者が不採用とされる一方で、その他の者については、減給や、さらには停職といった重い処分を受けていても採用候補者選考に合格し、再雇用職員等に採用されているという。

以上を要するに、本件は、実態として申し込みさえすればほとんどの者が採用される再雇用制度等において、停職処分を受けたような者でさえ採用される中、式典において起立等をしなかったという者だけが、それだけの理由でほとんど狙いうち的に採用を拒否される、そのようなことを裁量の範囲内であるとして許してよいのかどうか、という問題なのだ。1,2審は裁量の範囲を逸脱しまたはこれを濫用するものであり許されないとし、最高裁は裁量の範囲内であって許されるとした。あなたはどう考えるだろうか。

*1:この点にかかる詳細な認定は各自で判決文にあたられたい。

恥を知るということ

以下の記事を読んだ。

インターネットは人類に早すぎた - さよならドルバッキー

内容はおおむね首肯できるものだった。「ネットリンチ」という言葉が感覚で使われているようで腑に落ちないとの由、たしかに現状ではこの語の定義が共有されていないためにすれ違いが生じることもあるように思われる。「ネットリンチ」の定義とその注釈については以前記事にしたので、これが共通理解として広まってくれるとうれしい。

ネットリンチについて - U.G.R.R.

それにしても、ネットリンチについては、「一対多数」ではなく「一対一がたくさん」なのだと主張される方が本当に多い。これは上掲の拙記事を参照していただければ分かるように「多数」という要素と「いっせいに」という要素とを混同しているのだと思うが、その点を措くとしても、多数者間での示し合わせ、意思連絡がこれほどまでに重視されているのは少々不思議な感じがする。

もちろん意思連絡の存在によって行為の悪質性が増すということはありうるだろうが、数の力による言説の変質は意思連絡の有無にかかわらず生じるものであるから、行為によって生じる被害に着目するならば、意思連絡がさほどの意義を有するとも思えない。かつてまとめサイトで活発に行われていた非常識行為の晒し上げ等も、多くの場合まとめられた各書き込み間に意思連絡などなかっただろうが、だからと言って問題がなかったとすることはとうていできまい。

ツイッターなどでの不用意な発言に対して、「全世界に発信しているという意識を」云々という説教がなされることがある。自分が発言しようとしているのがいかなる場なのかを十分に認識するべきであるという限りにおいてこの説教は正しいが、それははてなブックマークコメントや匿名掲示板での書き込みについても妥当するはずだ。すべてのコメントが一覧形式で表示される場でコメントしておきながら、「示し合わせているわけではないから一対一だ、他の批判など知らない」「自分は思ったことを言っているだけ」として、自身の発言が他者の発言と相俟って与えうる影響等を一切無視するというのでは、少々無責任であるように思う。

では、はてなブックマークや匿名掲示板における行動の指針をどう考えるべきかというと、結局のところ、「恥を知る」ということに尽きるのだろうという気がする。

冒頭に掲げた記事では、「インターネットの1000回怒られシステム」という言葉が紹介されていた。ネット上では多くの者がそれぞれに「批判」をするため、「批判」が過大になるという考え方だが、ここで1000の批判が1000の観点からなされるというのであれば、それはむしろ知見を深める機会を持てるというネット上のメリットにさえなりうるだろう。

ところが実際には、1000の観点から批判がなされることなどない。「批判」と銘打たれたものの相当数は単なる罵詈雑言であるし、そうでないものも多くは既出の指摘の言い換えなど、なんら新たな知見や独自の情報を含まない、意味のない「批判」である*1。こうしたものは、その本質において、罵詈雑言とさして違いはない。自己顕示欲とか、いわゆるマウント欲求とかいったものを充足するためになされる、下品でくだらない行動だ。そしてなにより重要なのは、その下品でくだらない行動の犠牲となる者が存在するということだ。私自身さして上品な人間でもないし、上品ぶる必要もないと思うが、自己顕示欲等の充足という下品でくだらない目的のために他者を犠牲にすることは、許されるべきではない。

例の事件を機に、罵詈雑言については(少なくとも建前上)許されないと表明する者も増えてきている。今後は、賢しらぶってなんらの新知見等も含まないレトリックを弄ぶだけの「批判」を展開する行為が恥ずかしいものであるという認識を広めていくことが必要となるのかもしれない。「あ、もう言われてる」と思ったら、黙ってはてなスターだけ付けて去る程度の恥じらいを皆が持てば、ネットリンチをめぐる状況も今よりはずいぶんマシになるだろう。

*1:上掲の拙記事では、600を超えるブックマークの大半を占める「批判」コメントが、ほぼ三語に集約できてしまうという例を示した。1000の「批判」のうち、意味のあるものは、数件からせいぜい数十件といったところだろう。

等身大の公民権運動

エヴァ・デュヴァネイ監督『グローリー/明日への行進』(2014年公開)を見た感想を記す。内容への言及を含む。

グローリー/明日への行進 [DVD]

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黒人の選挙権をめぐるセルマでの運動から、公民権運動の集大成とも言うべき1965年の投票権法成立までを描く。

公民権運動の指導者キング牧師は、高潔な人物として描かれがちである。それは無論誤りではないが、しかし彼も人間である以上、いついかなるときも清く正しく生きられたわけではない。家庭内の不和に苦悩し、投獄に弱音をもらし、かつて悪しざまに罵られたマルコムXへのわだかまりを吐露し、山積する困難に直面して困憊する。キングも一人の弱い人間なのである。そんな彼の指導する運動もまた、清く正しいばかりのものではない。運動内部での意見対立もあれば、他団体との縄張り争いもある。運動の中では警官による暴力にさらされ、ときには死亡する者もあり、しかも悲しいことに、それらの「犠牲」は運動に必要なものとして織りこみずみでさえある。彼の運動は、たとえば悪名高いユージン"ブル"コナーや本作にも登場したジム・クラークなどのような差別主義者による暴虐と非暴力とを対置することによって、注目と支持とを取りつけようとするものだからだ。それはある意味で残酷なことであるが、それでも黒人たちは、自らの運命をその手に取り戻すために立ち上がり、そしてそれを勝ち取った。本作はそうした等身大のキング牧師公民権運動とを見事に描ききった佳作である。

ただし、さすがに本作の邦題については苦言を呈しておきたい。「グローリー」は本作のクライマックスでキングが連呼する「グローリー・ハレルヤ」からとったものであろうが、南北戦争を勇敢に戦ったアメリカ合衆国初の黒人部隊を描くエドワード・ズウィック監督『グローリー』(1989年公開)という超有名作品がある以上この語を安易に用いるのはどうかと思うし、なによりも「明日への行進」という副題である。上記のとおり、本作が扱うのはセルマの行進なのだが、このような副題を付けられれば、ほとんどの者が「私には夢がある」の演説であまりにも有名なワシントン大行進を思い浮かべると思われ、ある種詐欺的ですらある。原題『Selma』をそのままカタカナ表記にした方がよほどよかったのではないか。

「死刑廃止国では現場射殺」はなぜダメか

はじめに

死刑制度の存廃に関する話題で、「死刑廃止国では現場で犯人を射殺している」という類のコメントを見かけることがある。これらの多くは主張の体すらなしておらず、まともに取り合う者などほとんどいないと思っていたのだが、必ずしもそうではないようだ。

はてなブックマーク - 死刑廃止国が犯人を射殺した件数を調査してみた - 痩せるコーラ(新)

この種のコメントに共感する方が多いというのであれば、ばかばかしいと一笑に付するわけにもいかない。本記事では、この種のコメントのどこが問題であるかを説明するとともに、これをどのように改善すれば主張として意義あるものとできるかということについて考えを記しておきたい。

根拠条文を示そう 

まず問題とされなければならないのは、「現場射殺」という語が指し示すものの曖昧さだ。「現場射殺」はいかなる要件の下で行われるのか。それは刑の執行として行われるものなのか、それとも制圧の手段から結果として生じるものなのか。仮にも死刑という法制度と対比しようというのであれば、「現場射殺」についても法制度上どのように位置づけられるものであるかを明らかにすることが欠かせない。これは、もちろん誠実に説明しようとすればいくらでも労力を費やすことはできるのだが、とりあえず最低限の水準としては根拠条文(「現場射殺」が何法の何条に基づいて行われるのか)を示せば足りるだろう。

ところが管見の限り、この種のコメントにおいては、最低限の水準である根拠条文の提示を行うものさえ皆無である。この種のコメントを多少なりとも価値のある主張にしたいのであれば、まず前提として「現場射殺」の根拠条文を示すべきである。

趣旨を明らかにしよう

次に問題となるのは、この種のコメントの趣旨が不明瞭である点だ。きわめて多くのコメントが「死刑廃止国では現場で犯人を射殺している」と言い放つのみであるが、これ自体はいかなる主張でもない。そのことから、いったい何が言いたいのか。それを明らかにする必要がある。

この種のコメントのうち少し詳しいものでは、「死刑も現場射殺も国家による殺人という点で共通している」、あるいは「死刑の代替として現場射殺が行われている」などとしているようだが、やはり死刑存置の主張としては不十分である。なぜ不十分か。それは、「だから死刑を存置するべきである」ということにはならないからだ。

つねづね述べていることだが、「あいつもやってるのに」は子どもがダダをこねるのと同じであって、まともな大人のふるまいではない*1。仮に、死刑も「現場射殺」も同じようなものであり、死刑廃止国でも「現場射殺」が行われているとして、なぜ「現場射殺をやめよ」ではなく「死刑を存置せよ」という話になるのか。その理由まで明らかにしてはじめて、死刑存置の主張としては体裁が整うことになる。

死刑と現場射殺との関係にかかる留意点

上記の条件を充足することで主張の骨格は完成するが、これに肉付けを行うにあたっての留意点を記しておく。

「死刑も現場射殺も国家による殺人」という括りを行う場合には、むしろ死刑存置論者がこそがよく口にするところの「人権の比較衡量(被害者と加害者どちらが大切なのか)」という視点が欠けてはいないか、ということをよく吟味する必要がある。この点については過去記事ですでに述べているので詳しくはそちらを参照していただきたいが、一般に死刑が行われる場合、すでに犯罪は行われ、被害は生じてしまっている。死刑によって他者(被害者)の生命・身体が保護されるという関係にはない。これに対し「現場射殺」の場合、(実際どうなのかは今後根拠条文を示したまともな主張を展開する方が明らかにしてくださるだろうが)おそらく他者の生命・身体等に危険が生じていることが要件とされ「現場射殺」によって他者の生命・身体等への危険が解消されるという関係にあるものと思われる。このような場合に加害者の生命よりも他者(被害者)のそれを優先するというのは、日本も含めおそらくあらゆる国がとる態度であり、死刑廃止論者もかかる態度に対して異を唱えるものではない。無論、「現場射殺」判断の適否については慎重な考慮がなされなければならないが、それは制度運用面での問題であって、制度設計とは次元が異なる。こうした関係の違いにもかかわらず、なお「死刑も現場射殺も同じ」と言えるのか、という点に配慮した主張展開が求められるのだ。

「現場射殺は死刑の代替」とする場合には、まず死刑廃止と「現場射殺」との関係に注目する必要がある。死刑廃止前に「現場射殺」について規定する法がなく廃止後新たに設けられたとか、あるいは死刑廃止によって「現場射殺」が激増したというのであれば、「現場射殺」は少なくとも事実上死刑の代替としての機能を果たしたと言いやすいだろうし、そのような事実がなければ「現場射殺は死刑の代替」とは言いにくいだろう。また、それぞれの対象となったのがどのような者かという点にも注意を要する。たとえばオウムの麻原が確定判決において認定された犯行は、いかなる国においても最も重い刑罰をもって臨まれるものであろうが、彼は逮捕時瞑想にふけり抵抗のそぶりはなかったという。このような人物に対して「現場射殺」を行えない一方で、比較的軽微な罪を犯した者であってもその抵抗が激しいために「現場射殺」が行えるとすれば、死刑と「現場射殺」とは異なる機能を営むものというべきだろう。「対象の殺害」という点だけにとらわれず、一方の存廃が他方に及ぼす影響や、殺害の対象となる者の相違等にも注目した主張展開が求められるということだ。

おわりに

以上、「死刑廃止国では現場で犯人を射殺している」という類のコメントの問題点と、これをどのように改善するべきか、ということについて簡単に説明した。本記事をふまえて実りある主張をしていただければ幸いである。

「日本人差別」だけは許さない?

もちろんそんなことはないと思うが。

本日公開された、はてなによる差別的表現を含むブログへの対処にかかる一事例を興味深く読んだ。

差別的表現を含むブログに対する通報 - はてな情報削除・発信者情報開示関連事例 - 機能変更、お知らせなど

日本人男性に対する憎悪表現に終始していたブログ2件を公開停止にしたというものであるが、そこで大要以下のようなことが述べられていた*1

これまで、ブログやブックマークコメントなどでは、具体的な差別行動を呼びかけたり、差別を目的として情報収集を行うようなものを除いては、規約上禁止される差別的表現行為にあたらないと判断することが多かった。

しかし近年の社会情勢にかんがみ、社会通念上、明確かつ強固な意図に基づくと認められる差別的表現行為については削除相当との判断基準を採ることとする。

この判断基準は、はてなのサービス全域に適用する。

新基準適用の第一号が「日本人差別」なのだとすれば、正直なところ、なんだかなあという気持ちもないわけではないが*2、差別解消に向けた取組みとしては一歩前進というべきであり、支持したい。ところで、はてなの差別への対応方針については、個人的に少し思い出があるので、ここに記しておきたい。

私は2015年ごろ、ある件*3はてなに問い合わせを行ったことがあるのだが、その際、はてなサポート窓口から、問い合わせへの回答中で、差別的表現への対応方針について、大要以下のように述べられた*4

利用規約での禁止事項は、はてなのサービス全域において適用されており、サービスの性質によっては、法規制より広範に規制を行う場合があるため、広めに定めている。

例えば、人力検索はてなのようなユーザー間のコミュニケーションを主とするサービスにおいては、差別語の使用は削除・利用停止の対象となる。

一方、ブックマークコメントやブログ等、投稿者が自身の表現を行う場においては、差別語に類する表現について、公的な機関から削除要請があった場合には対応を行うが、三者からの通報では原則として対応をしていない。

「(ブックマークコメントやブログ等においては)差別的表現について、第三者からの通報では原則対応しない」というはてなの力強いお言葉にはずいぶん驚かされたものだが、 当時はまだいわゆるヘイトスピーチ解消法*5も成立しておらず、仕方のないことであったのかもしれない。

翻って、今回示された新基準である。新基準では、明確かつ強固な意図に基づく差別的表現行為は「削除相当」であると明言し、この基準がはてなの「サービス全域に適用される」としているのだから、素直に考えるならば、「第三者からの通報では原則対応しない」という従前の方針を改めたものであろうとは思う。しかしながら、新基準の文言だけを字面どおりに読むならば、通報段階については一切言及されていないというのも、また事実である。

法律用語に「当事者適格」というものがある。「当事者適格」とは、訴訟物たる特定の権利または法律関係について、当事者として訴訟を追行し、本案判決を求めることのできる資格のことだ。本記事は法的な解説を目的とするものではないのできわめて大雑把な説明をするが、訴訟において権利があるかないかを判断する本案判決を求めることができるのは、「当事者適格」その他の訴訟要件を具備した者だけである。これを具備しない者は、権利の有無について判断するまでもなく、訴えが不適法であるとして却下される。言ってみれば、実体的な判断に入る前の段階で、門前払いを食らわすというイメージだ。

これをふまえて新基準に目を向けると、そこで述べられているのはあくまでも「差別的表現にあたるか否か」をどのように判断するか、という実体的な部分にかかることでしかない。こうした判断をするようはてなに求めることができるのは誰か、という形式的な部分については何も述べられていないのだ。その結果、どのようなことが起こりうるだろうか。

ある者が、はてなに対して明らかな差別的表現を通報したとする。ところが、その者は、当該表現が差別的表現にあたるか否かの判断をはてなに求める資格を有する者ではなかった、すなわち先に紹介した私の問い合わせへの回答中ではてなサポート窓口が述べたところの「第三者」であった。そのため、はてなは当該表現について、判断を行うまでもないとしてなんらの対応もとらない……非常に穿った見方をするならば、このような運用を想定することも不可能ではない。

そして、差別における「第三者」(ないし「当事者」)としてはてながいかなる者を想定しているのかは不明だが、たとえば「日本人差別」であれば非日本人が「第三者」で日本人が「当事者」だと考えているのだとすれば、かかる運用がもたらす帰結は次のようなものだ*6。すなわち、日本社会において圧倒的マジョリティである日本人への差別についてはきわめて多数の「当事者」が存在し、はてなに対して容易に判断が求められ、これを解消することができる。一方、マイノリティへの差別*7は、その数が少なければ少ないほど、はてなに判断を求めることのできる「当事者」も少なくなり、差別が温存されやすくなる……。

……。

いや、これはもちろん私の穿ちすぎであろう。すでに述べたとおり、今回の新基準は、「第三者からの通報では原則対応しない」という従前の方針をはてなが賢明にも改めたというだけのことに違いない*8。近時は、通報によってヘイト動画を削除したり*9まとめサイトへの広告出稿を取りやめさせたり*10といった動きが盛んである。私も差別的表現を見かけたらできるだけ積極的に通報していきたい。本記事は、そう、「はてなは過去、ブログ・ブックマークコメント上で行われた差別的表現が第三者から通報されても対応しなかった。しかし、今般ついにそれが改められた」という前向きな記事なのだ。

*1:当方による要約。正確な文言はリンク先にて確認されたい。

*2:差別に対する理解が十分でない方に限ってこの語をふりまわしている印象があるので。

*3:その件自体は差別と関係するものではない。

*4:当方による要約。一部太字強調を施した。

*5:本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律。

*6:実際には、はてなが当時想定していたのは特定個人に差別的表現が投げつけられた場合の当該個人が「当事者」、それ以外が「第三者」というあたりではないかという気がする。ただし、そうだとすればそれはほとんど名誉毀損や侮辱等でカバーできる範囲であり、少なくともブログやブックマークコメント等において、はてなは差別的表現に対応するつもりがほぼなかったということであるが。

*7:本来その非対称性ゆえに最も深刻な被害が生じやすく、したがって対応の必要性も高い。

*8:含みのある書き方をしたが、はてな情報削除ガイドラインを確認しても申立人についての記述はなかった(なんらの限定もなかった)ので、十中八九そのような解釈でよいとは思う。

*9:https://hbol.jp/167028

*10:http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1806/13/news150.html

ネットリンチについて

はじめに

先日、読者の方からネットリンチに関する質問をいただいた。当該の質問に対する回答はすでに行っているが、この機会にネットリンチについての私の考えを少し説明しておこうと思う。

先日の記事*1で、私はネットリンチについて以下のように述べた。

ここにネットリンチとは、たとえば△△速報や××ニュースといったまとめサイトが行っている晒し上げのようなものだ。どこからか非常識な言動などを見つけてきて、これに対して多数によっていっせいに攻撃を加える。

私のネットリンチについての理解はおおむねこのとおりである。もっとも、ここで「非常識な言動など」としたのは、実際に行われるネットリンチの多くが非常識な言動に対するものであることから、イメージを描きやすくなるだろうとの配慮によるのであって、ネットリンチの対象となるのは「非常識な」言動に限られるわけではない(だからこそ「など」と付けている)。

本記事では、ネットリンチを「他者の言動等に対し、多数によっていっせいに攻撃を加えること」としたうえで、まずネットリンチについての総論を述べたあと、「他者の言動等」「多数によって」「いっせいに」「攻撃」という各要素について注釈を加えていく。

ネットリンチについて

総論

ネットリンチについて考える際には、ネットリンチとそうでないものとの境界は必ずしも明確ではないということに、注意しなければならない。というのも、これから説明する4つの要素は、いずれも「該当/非該当」というオールオアナッシングではなく、ある程度グラデーションのあるものとして捉えなければならないからだ。その結果、たとえば同じ程度の「攻撃」が行われても、ある場合にはネットリンチとなり別の場合にはネットリンチとならない、ということも起こりうる。各要素についての注釈の中で、いくつか例を挙げたい。

「他者の言動等」

「他者の言動等」とは、典型的には特定個人による発言(主張)や行動等をいう。団体によるものも含むが、その場合個人によるものに比して要素としては弱くなる、つまりネットリンチの色彩が薄くなる傾向にある。また、「攻撃」の重点が「他者」(個人・団体)よりも「言動等」(発言(主張)・行動等)におかれている場合も、要素としては弱くなる。近時では、某市の小学校における児童の読書管理の手法に批判が集まったが*2、これは小学校という団体の、しかもそれがとった「言動等」にあたるシステム(構築)に対する批判が主であったため、ネットリンチの色彩は比較的薄かった。

「他者の言動等」が攻撃的、挑発的である場合にも、これに対抗する必要を一定程度は認めることができるから、要素としては弱くなる傾向にある。近時では、kawango2525さんの正当な批判とイジメの境界線に関するツイートに「はてなーの連中の頭の悪さは本当に救い難い」との挑発的言辞が含まれており、*3このような場合には反撃がある程度激しいものとなってもネットリンチとは言いにくいかもしれない。もっとも、「(挑発してくるような)悪い奴だから袋叩きにしてよい」わけでないことは当然であり、この点を過度に重視するべきではない。

「多数によって」

「多数によって」とは、単純に数が多いということに加えて、相対的に見ても多いと言えることをいう。「攻撃」が多くとも、それと同程度に擁護意見もあるならば、「多数によって」とは言えない。たとえば、先ほど紹介したkawango2525さんのツイート*4に対する反応*5には、kawango2525さんへの「攻撃」が多く見られたが、逆に同調する意見も相当数含まれていた。このような場合には、必ずしも「多数によって」とは言えない。

「いっせいに」

「いっせいに」とは、「多数」からなされる各「攻撃」が、その対象となる者にとって同一の機会になされたものと認識されるような状態にあることをいう。「攻撃」者間の意思連絡等があれば要素として強くなるが、必須の条件ではない。

はてなブックマークではブックマークコメントが一覧の形式で表示されるため、これを利用して「攻撃」が行われた場合、「攻撃」の対象となった者は同一の機会にそれらの「攻撃」を認識することとなり、いちおう「攻撃」が「いっせいに」行われたものと考えることができる。

一方、たとえば低能先生*6に罵倒を受けた者らが、それぞれ個別に通報を行うような場合には、「いっせいに」とは言えないため、ネットリンチにはあたらない。ただし、低能先生への通報をよびかける記事があげられ、当該記事に対するはてなブックマーク等において低能先生をバカにしたり茶化したりするコメントが並ぶという事態になれば、ネットリンチにあたる可能性が出てくる点には注意を要する*7*8

「攻撃」

「攻撃」とは、典型的には罵倒をいうが、罵倒を含まない批判もこれにあたりうる。また、批判にも意味のない批判と意味のある批判とがあり、罵倒、意味のない批判、意味のある批判の順で要素としては弱くなっていく。

罵倒を含まない批判も「攻撃」にあたりうることは、すでに先日の記事*9で述べた。学級会での吊るしあげを想像していただきたい。「甲は掃除をさぼっていて良くないと思います」との発言がなされたとする。この発言自体は穏当な批判にとどまるとして、これに追随して教室中の者が口々に同旨の発言を甲に対して行ったとしたらどうか。彼らの発言は、個々に見ればいずれも穏当なものであるにもかかわらず、それがいっせいになされることによってときに暴力性を帯びるのである。

意味のない批判とは、批判内容が誤っているということではなく、新たな知見や独自の情報を含まない、ということである。典型的には既出の批判を言い換えたにすぎないようなものであり、特にブックマークコメントにおいては、字数制限の影響もあるのかもしれないが、元記事で行われている批判や既出のブックマークコメント等の言い換えにすぎないものがきわめて多く、新たな知見や独自の情報を含んだ意味のある批判は少ない。すでに紹介した某市の小学校における児童の読書管理の手法への批判*10などはその分かりやすい例で、2018年7月3日時点で約600あるブックマークの大半を批判が占めているが、その内容は図書館の自由、内心の自由、プライバシーのたった三語でおおむね集約できてしまう。

おわりに

以上、ネットリンチについての私の考えを簡単に説明した。なにかの参考になれば幸いである。

2018年7月3日追記

本記事中で言及した某市の小学校における児童の読書管理に関しては、以下のような続報が出ているようだ。

三郷市の小学校の読書促進策に批判殺到「担任が児童の読んだ本を把握し個別指導」って本当? 学校「誤解を招いて申し訳ない」 | キャリコネニュース

論旨とは関係ないが、参考までに紹介しておく。