どう見ても「ホモ」ネタ

以下の記事に接した。

『ドラえもん』でLGBT差別な表現が……この時代にまだ「同性愛はキモい」と発信するか?! | ヨッセンス

2018年8月3日に放送された『ドラえもん』が、LGBTへの差別意識を助長する酷い内容だったという。私はその回を視聴していないが、上記記事が問題にしているのは、てんとう虫コミックス22巻に収録の「ジャイ子の恋人=のび太」を元にした話のようだ。これは「ジャイ子のび太を好いていると誤解したジャイアンが、妹ジャイ子の恋を成就させるべく、のび太に(ジャイ子への)アプローチの指導を行う」というような筋なのだが、上記記事は主として以下の点を問題視している*1

ジャイアンのび太ジャイ子に告白させようと、練習するシーンです。

 

その練習をのび太ジャイアンが空き地でやってたんだけど、それをスネ夫が見て「オゲー!」ってなる描写

 

なにがひどいかと言うと「男が男を好き」ということを意図的に笑いに転換させていること

事情を知らずにのび太ジャイアンの告白練習を見たスネ夫が「オゲー! 」ってなる、という描写がいわゆる「ホモ」をネタにしている、との指摘だ。上記記事中で紹介されているクロスさんのツイート*2が使用している放送のキャプチャー画像を見る限り、少なくとも告白練習の場面あたりはおおむね原作と同じ流れで話が進んでいるようであり、そうであるならば指摘は妥当だろう。

この点に関して、2018年8月13日現在、スネ夫が驚いたのは告白対象が男だからではなくジャイアンだからだ、しずちゃんジャイアンに告白してもスネ夫は驚くだろう、とするid:fockさんのブックマークコメント*3が人気を集めているが、さすがに無理のある解釈だと思う。

理屈で言えば、id:ChieOsanaiさんが指摘するように*4しずちゃんの告白を目撃してもスネ夫は「オゲー! 」とはならない、ということになるだろうし、そんな小難しいことを考えるまでもなく、告白練習の場面を普通に見れば、あれがいわゆる「ホモ」をネタにしていることは一目瞭然だろう。だからこそ、クロスさんの上記ツイートのリプライ欄には「(悲報)ドラえもん、深夜ホモ漫画になる」といったツイート*5が現れるし、問題の放送当時の感想と思しきツイートを探してみても、「何だこのホモアニメは…(困惑)」「ホモ回だったか」といった類のもので溢れている(ほぼそれ一色と言ってもよいほどだ)。原作ではスネ夫にセリフはなく驚愕の表情を見せるのみなのだが(藤子・F・不二雄の「驚愕の表情で笑わせるテクニック」は本当にうまいと思う)、それでも私はかつて原作を読んだ際、あの場面を明確に「ホモ」ネタとして受け取り、笑った(それは自覚なき差別であると指弾されても仕方がないと思う)。

fockさんやそれに賛同する方は、どのような立場をとるにせよ、あれが本当に「ホモ」ネタでないと思うのか、いま一度自問してもらいたい。誤解をおそれずに言うが、私はあれを「ホモ」ネタでないという方々に、大好きな『ドラえもん』を汚されたと感じている。とても腹立たしい。もしも自身の主張のためにあのような妙な解釈をされているのであれば、そうした作品を歪めるようなまねは、どうかやめてほしい。

さて、告白練習の場面が「ホモ」をネタにしていることを前提としたうえで、これをどうするべきか、というのはなかなか難しい問題だ。私は、少なくとも漫画については基本的に修正の必要はないと考えている。『藤子・F・不二雄大全集』の末尾には、「読者のみなさまへ」という、作中の差別表現等についての藤子・F・不二雄プロ及び小学館の考え方を記した文章が収められているのだが、私も大筋においてこれに同意するからだ。この文章は巻によって若干内容が異なるのだが、ここでは「ジャイ子の恋人=のび太」が収録されている『藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん 7』のものを引用する。

 本全集では、作品が描かれた時代の意識をそのまま読者に伝え、歴史的事実と作品の生まれた社会状況を正しく把握することが、藤子・F・不二雄の作品を正しく捉え、評価することであるとも考え、できるだけ当時のまま掲載することを基本に編集いたしました。

 

 もちろん、差別的表現に対する指摘については、真摯に受け止めると同時に、あらゆる差別や偏見をなくすために努力していくことが、藤子・F・不二雄の漫画創作の底辺に流れる志に添うものであると信じております。

 また、作者がすでに故人で、第三者が手を加えることは、著作者人格権上の問題ともなりかねず、改訂は最小限にとどめることが、こういった問題を考えていく上で最も適切な処置であると考えます。 

作中の差別表現等についても時代的制約をふまえたうえで正面から向きあうことが作品の正しい評価に資する。また、すでに亡き作者の意向をふみにじることとならぬよう創作物として尊重する必要もある。さらに付け加えれば、過去の差別・偏見をなかったことにすることと、差別・偏見をなくすこととは別でもあろう。漫画についてはこの考えでよいとしても、アニメについてはどうか。『ドラえもん』のアニメは、いちおう原作があるとはいえ、あくまでもこんにちの社会において新たに作られるものである。その中で、差別や偏見を助長するような表現をどの程度まで許容するべきか。原作をどの程度まで尊重するべきか。結局は個々の事案で判断していくしかない、難しい問題となるのだろう。

今回の放送については、問題となっている箇所がまさに一番大きな笑いのポイントであり、下手にいじると作品の魅力が大きく損なわれかねないため、もし修正するならばかなり難しい課題となることが予想される。一方で、差別・偏見としてはそこまで露骨というわけでもないため、私個人としては、いちおう現状のままでよいのではないかな、と思っている。ただしそれも、あくまでも今回の放送が差別・偏見を助長しかねない内容であるとの指摘を真摯に受けとめ、傾聴したうえでのことである。上記記事への反応*6の中には目を覆いたくなるような罵詈雑言も見られるが、修正にまで同意するかどうかはともかくとして、指摘に対して誠実に耳をかたむける姿勢はもちたいものだ。 

ドラえもん 22 (てんとう虫コミックス)

ドラえもん 22 (てんとう虫コミックス)

 
ドラえもん 7 (藤子・F・不二雄大全集)

ドラえもん 7 (藤子・F・不二雄大全集)

 

「主権」の意味

伊勢崎市議会議員伊藤純子の以下のツイートに接した。 

私は地方議員にあまり高い知的水準を求めるのもいかがなものかと思っており、今回のツイートについてもそこまで厳しく批判をするつもりはないのだが、しかしいちおう公務員には憲法尊重擁護義務が課されているところでもあるし*1、個人的に少々懐かしい話題でもあるので、簡単にだけふれておきたい。

「主権」という語は、一般に3つの異なる意味で用いられる。芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)39頁より引用する。

主権の概念は多義的であるが、一般に、①国家権力そのもの(国家の統治権)、②国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては最高、外に対しては独立ということ)、③国政についての最高の決定権、という三つの異なる意味に用いられる。

統治権、最高独立性、最高決定権。この「主権」の意味の見きわめはいわゆる短答プロパーであり、統治分野の中では最頻出の部類に属する知識なので、憲法の短答式(択一式)試験を受ける者であれば、誰もが真っ先に押さえるところだ。それぞれ有名な例を1つずつ挙げておくと、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」とするポツダム宣言8項*2の「主権」は統治権の意味、憲法前文が「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」というときの「主権」は最高独立性の意味、憲法1条が天皇の地位について「主権の存する日本国民の総意に基く」というときの「主権」は最高決定権の意味である。

以上をふまえて伊藤のツイートに戻ると、このツイートは、前半では統治権の意味での「主権」を説明し、後半では「主権」が国民にあるかどうか、つまりいわゆる「主権在民」「国民主権」のコンテクストで用いられる「主権」について論じているように見える。そして、上記「主権の存する日本国民の総意に基く」の例からも明らかなとおり、「主権在民」「国民主権」というときの「主権」は最高決定権の意味である。そうすると伊藤のツイートは、前半で統治権の意味での「主権」について説明しながら、後半では最高決定権の意味での「主権」について論じている(ように見える)ということになる。つまり、「主権」の意味の見きわめが全くできていない(ように見える)のだ。伊藤のツイートに頓珍漢な印象を受けるのは、このためである。

*1:憲法99条。

*2:http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

「保守」するべきもの

前回は、保守主義の父バークが、啓蒙主義ないし人権思想について、あまりにも物事を単純に捉えすぎるものだとして疑義を呈していたことをお話ししました。今回は、そのバークが「保守」しようとしたものは何か、そしてそれはこんにちの社会にも残っているのか、といったことについての話をしようと思います。

バークが「保守」しようとしたもの、それはひと言でいうならば「経験」です。ここにいう「経験」とは、たとえば慣習であったり、宗教であったり、偏見であったりというような、先人たちが長い年月のうちに積み重ねてきたもののことです。

たしかに「経験」には、一見不合理と思えるような内容が含まれていることも多いでしょう。その意味で、理性によって不合理な迷妄に囚われている民衆を解放しようとする啓蒙主義からすれば、それは克服するべきものでしかないかもしれません。

しかし一方で、「経験」には、多年にわたって秩序を維持し人々の生活を成り立たせてきたという「実績」があります。そうである以上、仔細に観察するならばほとんどの場合そこにはなんらかの叡知が含まれています。そして、「人間の本性は複雑であり、社会の諸目的も考えられる限りで最も複雑」であってみれば、「経験」のうちの不合理と見える部分も、啓蒙主義ないし人権思想の一面的な見方に基づくゆきすぎを和らげる機能や、あるいはもっと別の有意義な機能を有しているのかもしれません。もちろん、単なる不合理という可能性もおおいにあるわけですが、その判定を明快に行うことができない以上、そうした部分も含めて「経験」を受けいれる方が、結局はむしろ人々の権利を実質的に保障することにつながる、というわけです。バークの言葉を引いておきましょう*1

単純な統治は、せいぜい良く言って根本的な欠陥品である。我々が社会をたった一つの観点から眺める限り、この種の単純な様式の政治体は無限に魅力的に見えよう。実際に個々の要素はそれぞれの目的に、一層複雑な機構がその複合的な目的すべての実現に適合する以上に、遥かによく適合するだろう。だが全体が不完全かつ不規則に適合する方が、一部の要素がこの上なく精密に機能する一方で、それ以外のものがこの気に入りの箇所への度を越えた配慮のために全く無視されて著しい損傷を受けるよりはむしろ望ましい。

バークはこのように、抽象的な権利をいたずらに唱えるよりも、「経験」、言い換えれば他人の叡知に敬意を払うべきだと主張しました。そうすることで、複雑な社会状況においても誤りの少ない判断が可能となり、ひいては人々の権利を実質的に保障することにもつながると考えたのです。

さて、そろそろこんにちの社会に目を移してみましょう。杉田水脈の例の文章を嚆矢として保守と目される人々が次から次へと引き起こすこのところの騒動を見れば、18世紀末にも負けないほどの偏見が、こんにちの社会においてもまかりとおっていることは分かります。しかしこうした偏見を、「保守」するべき「経験」として評価するべきなのでしょうか。

ここで留意しなければならないのは、「経験」が尊重されうるのは、啓蒙主義ないし人権思想が陥りがちな単純さ、一面性を回避する限りにおいてである、ということです。啓蒙主義ないし人権思想がときに一面的なものとなるのは、これが現実から離れた抽象的な権利、いわば机上の空論を扱うものだからです。そうであってみれば、こうした単純さを回避する点に意義を有する「経験」は、抽象的であることに対して慎重でなければなりません。

たとえば、戦前の日本において、女性への偏見は家制度と分かちがたく結びついていました。この制度の下で、女性は財産を承継する権利もないまま家に押し込められ、差別的な扱いを強いられてきました。私自身は家制度をはっきり悪だと考えていますが、 他方この制度下において、家長は女性(をはじめとする家族)を養うべきであるという圧力(=偏見)も強く、ある意味において女性(をはじめとする家族)の生活を営む権利が実質的に保障されていたということもまた否定しがたいのではないかと思います。このように、偏見が「経験」として尊重されうるとすれば、それは抽象的な考え方としてではなく、現実となんらかの形で結びついた、言うなれば地に足のついたものであることが望まれるはずです。

ところが、杉田水脈の例の文章などもそうですが、近時の保守がまきちらす数々の偏見からは、こうした現実との結びつきがきわめて希薄であるという印象を受けます。考えてみれば、これは当然のことかもしれません。地に足のついた「経験」を生み出す基盤となるのは共同体ですが、これが戦後約70年の間にほとんど消えてなくなってしまったからです。たとえば、家制度の解体によって家族の紐帯は弱められ、高度経済成長期の大量の人口移動によって農村的な地域の紐帯も断ち切られました。このような状況下において、現実から遊離した抽象的な偏見だけが未だ声高に叫ばれているのです。それが本来保守が想定していたであろう「人々の権利を実質的に保障する」ことに些かでも資するとは、私には到底思えません。

こうした現状を見ていると、私はマックス・ウェーバーがその著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において述べていたことを思い出さずにはおれません*2 。資本主義はプロテスタントの禁欲の精神によって形成される。しかし、ひとたび資本主義が確立されてしまえばもはや禁欲の精神は不要となり、資本主義という鉄の檻から抜け出してしまう、というあの有名な部分です。現在はびこっているさまざまな偏見も、もとは人々の権利の実質的な保障を目的とする保守の精神によって形成されてきたものなのかもしれません。しかしいまや保守の精神は消え失せ、偏見という鉄の檻だけが残っている。そうであるならば、いったいこの鉄の檻を維持することに、何の意味があるというのでしょうか。

以上、つらつらと思うところを述べてきました。たしかに、保守の立場からなされる啓蒙主義ないし人権思想への批判には、それなりの理があるのかもしれません。また、かつては「経験」を重視する保守という立場も、あるいは選択肢としてありえたのかもしれません。しかし、今や「保守」するべき「経験」はほぼ残っていない。それは時代の流れでもありましょうし、皮肉にも保守政党を自任する自民党自身が先頭に立って推し進めてきたことでもありましょう。私などは保守的なところがあるので、その事実に一抹の寂しさも感じるのですが、いつまでも死んだ子の年を数えていることもできません。私たちは、「保守」の死骸に背を向け、独り立って歩き出すべきときなのでしょう。

世界の名著〈50〉ウェーバー (1975年)

世界の名著〈50〉ウェーバー (1975年)

 

*1:エドマンド・バーク中野好之訳)『フランス革命についての省察(上)』(岩波文庫、2000年)114頁以下。

*2:私が参照したのは、尾高邦雄責任編集『世界の名著50』(中央公論社、1975年)に収録されている梶山力、大塚久雄訳のものです。

保守が人権を否定するのは自然なこと

それにしても杉田水脈が月刊誌「新潮45」に寄稿した例の文章はとんでもないものでした。ここまで酷いものが出てくると、「杉田は真の保守ではない」などと彼女を例外的な存在として処理しようとする向きもあるかもしれません。それが完全に誤りであるとは言いませんが、しかし基本的に保守とは人権を否定・軽視する勢力なのだ、という話を、今日はしようと思います。

先日内閣不信任決議案の趣旨説明で枝野幸男も述べていたように*1、保守の起源はフランス革命にまでさかのぼります。ご存知のとおり、フランス革命とは18世紀末に起きた市民革命です。絶対王政が行きづまる中、人口の9割超を占めながらも参政権を与えられていなかった第三身分(平民)を中心とする人々が蜂起して行った一連の社会変革をこう呼ぶのです。

この革命は、啓蒙主義に基づいて行われました。これは、理性によって不合理な権威や制度、慣習等を批判し、これらから民衆を解放しようとする考え方です。こうした啓蒙主義は、フランス革命の基本理念を記したフランス人権宣言の第1条に、最も端的な形で現れています。

第1条 人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、存在する。社会的差別は、共同の利益に基づいてのみ設けることができる。

身分制に代表される不合理な古い社会制度(アンシャンレジーム)を打破し、(身分の別なき)普遍的な人権を承認する。高らかに謳いあげられたこの近代的な人権思想こそが、啓蒙主義最大の果実と言ってもよいかもしれません。

ところが、こうした啓蒙主義(ないし人権思想)とこれに基づいて行われたフランス革命に対して、異議を唱える人物が現れます。それが、保守主義の父と呼ばれるエドマンド・バークです。彼がその著書『フランス革命についての省察*2において行った啓蒙主義(ないし人権思想)への批判こそが、保守の起源なのです。

バークの批判は、ひと言で説明するならば、啓蒙主義(ないし人権思想)があまりにも物事を単純に捉えすぎている、ということでした。塞翁が馬の故事ではありませんが、よのなか何が禍となり福となるかはなかなか分からないものです。一見無駄としか思えないようなものが後々になって役に立つこともあれば、その逆もある。啓蒙主義(ないし人権思想)という現実の複雑さに目を向けぬ抽象的な理念は、なるほど美しく完全なものに見えるかもしれない。しかしこれを実際の社会に適用するとなれば、机上では想像しがたいさまざまな弊害が生じるであろう。これがバークの懸念であり、彼はこうした懸念を「彼らは万物への権利を有することで、万物を喪失する」という簡潔な言葉で見事に表現しています。そしてナポレオンの軍事独裁による挫折へと至るまでのフランス革命の経過は、彼の懸念にそれなりの正当性があったことを証明するものでした。

以上お話ししてきたとおり、保守とはその出自からし啓蒙主義ないし人権思想を(部分的にではあるにせよ)否定するものだったのです。そうであってみれば、こんにちの保守に人権を軽視する手合いが目立つのも、ある意味では自然なことと言えるのかもしれません。もちろん、保守というものを考えるのに大切なのはここから先の話で、彼らはいったい何を、なんのために「保守」しようとしたのか、そしてこんにちの社会に「保守」するべきものは残っているのか、といったあたりを検討する必要があるのですが(すでに削除されてしまいましたが、稲田朋美の「憲法教」ツイート*3とからめて論じると面白いかもしれません)、そちらに歩を進めると少し長くなりますし、もともと今日は、基本的に保守とは人権を否定・軽視する勢力であるとの話をするということでもありましたから、続きは次回ということにしていったん話を終わりたいと思います。

*1:https://note.mu/jun21101016/n/n2782bfee0c00

*2:私が参照したのは、エドマンド・バーク中野好之訳)『フランス革命についての省察(上)』(岩波文庫、2000年)、エドマンド・バーク中野好之訳)『フランス革命についての省察(下)』(岩波文庫、2000年)です。

*3:https://mainichi.jp/articles/20180731/k00/00m/010/033000c

被告人は聖人ではない

レジナルド・ハドリン監督『マーシャル 法廷を変えた男』(2017年公開)を見た感想を記す。内容への言及を含む。

白人女性エリー・ストルービングを強姦したうえ殺害せんとしたとして起訴された彼女の家の黒人運転手ジョゼフ・スペルを、サム・フリードマンがサーグッド・マーシャルの助力を得ながら弁護する。自分は無実であり、犯行時刻と近い時間帯に一人で車を運転しているところを警察官に呼び止められ免許証を見せたというアリバイもあると主張するスペルの言葉を信じ、奮闘するマーシャルたち。スペルの言葉を裏づけるように、たしかに一人で運転する彼を呼び止めたという警察官も現れ、当初マーシャルらの戦いは有利に進んでいるようにも見えた。ところが裁判が進む中で、ストルービング夫人は「スペルが警察官に呼び止められた際自分も同乗していたが、彼に伏せているよう脅されこれに従っていたため警察官は気づかなかった」旨を証言し、たしかにスペルが警察官に呼び止められた際彼女は同乗していたということが明らかになる。スペルは嘘を吐いていたのだ。

後にアメリカ史上初の黒人最高裁判事となるサーグッド・マーシャルを描くが、あまり細かいことを気にせずエンターテイメントとして楽しめる法廷劇である。ただ、非常に重要な教訓も含んでいる。それは、被告人は聖人ではない、ということだ。スペルがそうであったように、前歴があったり素行が不良であったりする被告人は多い。そして、スペルのように味方である弁護士に対してさえ嘘を吐く被告人も珍しくはない。聖人でないどころか、むしろ「不良市民」とでも呼ぶべき人物の方が多いとさえ言えるかもしれない。しかし当然ながら、「不良市民」であるということと有罪であるということとはまったく別の問題である。たとえ問題を抱える人物であっても弁護人を依頼して公平な裁判を受ける権利があるし、身に覚えのない罪で罰せられたり不当に重く罰せられたりしてはならない。というよりも、そうした問題ゆえに指弾され疑われるような立場にある者のためにこそ、こうした権利等は保障されなければならない。いつだって蔑ろにされるのは、誰からも好かれるような者ではなく、嫌われ者、鼻つまみ者なのだから。「不良市民」であっても、否、「不良市民」にこそ権利保障を。それは人種も国も越えた、正義である。 

君が代不起立での再雇用拒否は何が問題か

君が代斉唱の際に起立等をしなかった都立高校の元教員ら22人の再雇用等拒否にかかる裁判で、19日、最高裁が、1,2審をくつがえし、再雇用等を行わなかったことは裁量の範囲内であると判断したとの報道と、それに対する反応に接した。

君が代不起立で再雇用せず 元教職員が逆転敗訴 最高裁 | NHKニュース

はてなブックマーク - 君が代不起立で再雇用せず 元教職員が逆転敗訴 最高裁 | NHKニュース

この問題についてはいずれまとまったものを書くつもりなので今回詳しく論じることはしないが、あまり理解できていない方が多いようなので、本件がどういう問題なのか、ということだけ簡単に説明しておく。

そもそも本件における再任用制度は、その導入にあたり、いわゆる満額年金の支給開始年齢を引き上げる年金制度の改正にあわせて定年後の雇用確保を目的とするものと説明されてきた。やや不正確ではあるが、大雑把に言えば、定年から支給開始年齢までの空白期間を埋めるための制度であったということだ。

このような沿革もあって、本件における再雇用制度等は、定年後の職員の雇用確保や生活安定をも目的としており、きわめて高い採用率を示していた。この点、最高裁判決は「(当時再雇用を)希望する者が原則として全員採用されるという運用が確立していたということはできない」旨をいうのであるが、平成12年度から平成21年度までにおいて再雇用等を新規に希望する者のうちおおむね90%から95%程度以上が採用されていたとの実態からは、再雇用に対する期待がなんらかの形で保護されてよいのではないかとも思えるところである。1,2審はこうした期待の保護を前面に打ち出すものであり、最高裁はそうではなかった。

そして、再雇用制度等において採用の判断に際し一定の裁量が認められるとしても、その判断が多種多様な要素を総合的に考慮したうえで行われるべきことは当然である。仮に、特定の要素を不当に重視したり、考慮するべき要素を考慮しなかったり、といった恣意的な判断がなされたとしたならば、それは裁量権の範囲を逸脱しまたはこれを濫用したものとなる可能性がある。1,2審は不起立等の職務命令違反のみをもって*1不採用とすることは裁量権の範囲を逸脱しまたはこれを濫用するものであるとし、最高裁は広範な裁量を認めて裁量の範囲内であるとした。

なおこの点に関連して参考までに述べておくと、元教員らが選考申込みをした3年間において、不起立等をした者は100%不合格等となり、その他の者については申し込みさえすれば98%超の割合で採用されていたようだ。また、 裁判において認定されているとおり、元教員らの不起立等は消極的な態様にとどまり、式の進行を阻害するようなものではなかった。このような不起立等によって戒告処分とされたにとどまる者が不採用とされる一方で、その他の者については、減給や、さらには停職といった重い処分を受けていても採用候補者選考に合格し、再雇用職員等に採用されているという。

以上を要するに、本件は、実態として申し込みさえすればほとんどの者が採用される再雇用制度等において、停職処分を受けたような者でさえ採用される中、式典において起立等をしなかったという者だけが、それだけの理由でほとんど狙いうち的に採用を拒否される、そのようなことを裁量の範囲内であるとして許してよいのかどうか、という問題なのだ。1,2審は裁量の範囲を逸脱しまたはこれを濫用するものであり許されないとし、最高裁は裁量の範囲内であって許されるとした。あなたはどう考えるだろうか。

*1:この点にかかる詳細な認定は各自で判決文にあたられたい。

恥を知るということ

以下の記事を読んだ。

インターネットは人類に早すぎた - さよならドルバッキー

内容はおおむね首肯できるものだった。「ネットリンチ」という言葉が感覚で使われているようで腑に落ちないとの由、たしかに現状ではこの語の定義が共有されていないためにすれ違いが生じることもあるように思われる。「ネットリンチ」の定義とその注釈については以前記事にしたので、これが共通理解として広まってくれるとうれしい。

ネットリンチについて - U.G.R.R.

それにしても、ネットリンチについては、「一対多数」ではなく「一対一がたくさん」なのだと主張される方が本当に多い。これは上掲の拙記事を参照していただければ分かるように「多数」という要素と「いっせいに」という要素とを混同しているのだと思うが、その点を措くとしても、多数者間での示し合わせ、意思連絡がこれほどまでに重視されているのは少々不思議な感じがする。

もちろん意思連絡の存在によって行為の悪質性が増すということはありうるだろうが、数の力による言説の変質は意思連絡の有無にかかわらず生じるものであるから、行為によって生じる被害に着目するならば、意思連絡がさほどの意義を有するとも思えない。かつてまとめサイトで活発に行われていた非常識行為の晒し上げ等も、多くの場合まとめられた各書き込み間に意思連絡などなかっただろうが、だからと言って問題がなかったとすることはとうていできまい。

ツイッターなどでの不用意な発言に対して、「全世界に発信しているという意識を」云々という説教がなされることがある。自分が発言しようとしているのがいかなる場なのかを十分に認識するべきであるという限りにおいてこの説教は正しいが、それははてなブックマークコメントや匿名掲示板での書き込みについても妥当するはずだ。すべてのコメントが一覧形式で表示される場でコメントしておきながら、「示し合わせているわけではないから一対一だ、他の批判など知らない」「自分は思ったことを言っているだけ」として、自身の発言が他者の発言と相俟って与えうる影響等を一切無視するというのでは、少々無責任であるように思う。

では、はてなブックマークや匿名掲示板における行動の指針をどう考えるべきかというと、結局のところ、「恥を知る」ということに尽きるのだろうという気がする。

冒頭に掲げた記事では、「インターネットの1000回怒られシステム」という言葉が紹介されていた。ネット上では多くの者がそれぞれに「批判」をするため、「批判」が過大になるという考え方だが、ここで1000の批判が1000の観点からなされるというのであれば、それはむしろ知見を深める機会を持てるというネット上のメリットにさえなりうるだろう。

ところが実際には、1000の観点から批判がなされることなどない。「批判」と銘打たれたものの相当数は単なる罵詈雑言であるし、そうでないものも多くは既出の指摘の言い換えなど、なんら新たな知見や独自の情報を含まない、意味のない「批判」である*1。こうしたものは、その本質において、罵詈雑言とさして違いはない。自己顕示欲とか、いわゆるマウント欲求とかいったものを充足するためになされる、下品でくだらない行動だ。そしてなにより重要なのは、その下品でくだらない行動の犠牲となる者が存在するということだ。私自身さして上品な人間でもないし、上品ぶる必要もないと思うが、自己顕示欲等の充足という下品でくだらない目的のために他者を犠牲にすることは、許されるべきではない。

例の事件を機に、罵詈雑言については(少なくとも建前上)許されないと表明する者も増えてきている。今後は、賢しらぶってなんらの新知見等も含まないレトリックを弄ぶだけの「批判」を展開する行為が恥ずかしいものであるという認識を広めていくことが必要となるのかもしれない。「あ、もう言われてる」と思ったら、黙ってはてなスターだけ付けて去る程度の恥じらいを皆が持てば、ネットリンチをめぐる状況も今よりはずいぶんマシになるだろう。

*1:上掲の拙記事では、600を超えるブックマークの大半を占める「批判」コメントが、ほぼ三語に集約できてしまうという例を示した。1000の「批判」のうち、意味のあるものは、数件からせいぜい数十件といったところだろう。