増田での個人攻撃の度が過ぎる

はじめに

いや本当に酷い。

以下のはてな匿名ダイアリー(通称「増田」)の記事とそれに対する反応の話。

まともなフェミニストはこれをどう思うの

はてなブックマーク - まともなフェミニストはこれをどう思うの

ネットリンチ的なふるまいはやめましょう

まずは「反応」の方について簡単にふれておきますが、これ書いてて恥ずかしくないんですか、人として。

「アホ」「バカ」「ゴミ」「マジキチ」……ここぞとばかりに個人に対して罵詈雑言を投げつける。直接的な文言を用いていないものも、その過半は個人を愚弄する趣旨であり、残りも記事の主張を無批判に前提とした意味のない批判がほとんど。

あなた方の行為はきわめてネットリンチ的ですよ。大多数はいい年した大人なんでしょうから、もう少し節度を持ってください。なお、「ネットリンチ」や「意味のない批判」等については以下の記事を参照。

ネットリンチについて - U.G.R.R.

しかし酷い増田だ

で、こうした反応を引き起こした元凶が増田の記事なわけだけれども、この人、よくこの内容を増田で書けましたね。

それを増田で言うんですか 

これ、要するに「糞フェミたち」(削除済み*1の過去の言動を問題にしているわけでしょう。

お前たちは今こう言うが、過去にこう言っていたじゃないか、と。

いや、それを増田で言うんですか。

増田での個人攻撃を批判していると、たまにはてなidも匿名だし同じことじゃないか、と言う方がいます。

そのとおり、たしかにはてなidも匿名ではあります。しかしたとえ匿名でも継続的に運用することによって、当該idの人格と言動とはひもづけられます。言動に対して一定の責任をとるだけの仕組みが確保されており、その点で増田の記事とは大きく異なるのです。

今回の件などはその最も分かりやすい例でしょう。

いま気の毒にも増田の記事で名指されている方々は、まさに自身の過去の言動ゆえに攻撃を受けています。これによってはてなユーザー間での評価が下がるといったこともありえるでしょう。実際はてなブックマークコメントの中には、名指された方々を非表示リストに入れる旨を示唆するものもあります。いま名指されている方々は、自身の言動についてこのような形できちんと責任を引き受けているのです。

ひるがえって、増田の記事はどうでしょうか。どのidが書いたかも分からない増田の記事ですから、当然過去の言動について検証され、批判されることはありません。また今回の記事自体も、都合が悪くなれば消してしまえばそれまで。自身のidへの評価など一切気にする必要はありません。言動についてまったく責任を引き受けずにすむのです。

つまり今回の増田記事が行っているのは、自らは過去(に限らず一切)の言動についてなんら責任を問われない場に身をおきつつ、標的の過去の言動についてあれこれ論難する、という行為にほかなりません。端的に言って恥知らずだと私は思います。

単なる規約違反者のくせに偉そうだな 

そしてこれはブックマークコメントでも書いたことですが、そもそもの問題としてはてなは、増田で本人が望まない形での言及を行うのは基本的にいやがらせ・迷惑行為であるとしています*2

言うまでもなく、いやがらせ・迷惑行為ははてな利用規約違反です。つまり名指された方々が望んでいない場合、今回の増田の記事を書いた人は、単なる規約違反者なのです。規約違反者がどのツラさげて他人様を糾弾するのか、という意見が一向に出てこないのは少々不思議な気がします。

以前にも紹介しましたが、増田の記事については「言及された当事者から削除の申し立てがあった場合、発信者への意見照会を経ずに削除を行う」 とのルールが運用されています*3。被害にあわれた方はどんどん申立てを行って削除していくとよいと思います。

おわりに

それにしても増田からの個人攻撃は多すぎる。

実は本記事を作成するにあたって、増田での個人攻撃がどの程度行われているか簡単に確認してみました。10月以降かつ10ブックマーク以上のもの、さらに1つのツリーに収まる場合は元記事以外を省略する、という条件でもこれだけの記事が見つかりました。

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冒頭に掲げた増田記事もあわせて8本。きわめて大雑把な確認なので遺漏もあるかもしれません。少なくとも2日に1度のペースで、増田からなされた個人攻撃がそれなりに世間の注目を集めているのです。このような状況は大変不健全だと思います。

先ほど増田による個人攻撃の被害にあわれた方はどんどん申立てを行って削除していくとよいと述べました。これは特にいわゆる「フェミ叩き」に対して有効だと思います。というのも、第一に「フェミ叩き」では標的とされる方がおおむね一定であり、被害者の側において削除申立てをルーティンとして気軽に行いやすいから。そして第二に標的の選定や文体等から、攻撃者はさほど多くないと推測されるからです。増田記事の削除を受けたにもかかわらず同様の行為を続けた場合、はてなのサービス全体の利用停止も含めた厳しい措置がとられる可能性もあります。サクサク申立てを続けていけば、少なくとも「フェミ叩き」系の個人攻撃は、意外と早期に撲滅できるのではないでしょうか。

被害を受けた方のご負担になりうることなので難しいところですが、1つの見解として聞いていただけると幸いです。

*1:丸括弧内のid名は今後の経過によって削除する場合があります。

*2:http://labo.hatenastaff.com/entry/2014/09/04/182358

*3:前掲注2参照。

憲法の役割とリベラル(2)

世の中の多くの場面において問題とされているのは立憲的意味の憲法であり、この意味での憲法は国家権力を制限し国民の権利を保障することをその役割としている、と述べました

さて、「憲法によって国家権力を制限し国民の権利を保障する」ということについてイメージを持てない人もいると思うので、少しかみくだいて説明します。

日本国憲法は第三章で国民の基本的人権について規定しているのですが、今回はその中から思想・良心の自由を保障した憲法19条をとりあげてみましょう。

19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

この条文は思想についての沈黙の自由をも保障するものと解されています。このことを前提に、次のような事態を想像してみてください。

国会での審議を経て、「踏絵法」が制定されました。これは、X国をわが国の存立に重大な脅威を及ぼすおそれのある危険国家と位置づけ、X国の政治思想等に共鳴しこれを利するような行為に及ぶ可能性のある者を予め把握するため、日本国内に住所を有するすべての者に対して、1年に1度、X国の政治的象徴たるPの肖像を足蹴にできるかどうかを確認する「踏絵検査」を受けることを義務づけ、検査を拒否した者には罰金を科する、というものでした。(続く)

憲法の役割とリベラル(1)

憲法の役割とはなにか」ということは単純な知識の問題にすぎず、本来リベラルとの関係で論じるような話題ではないかもしれません。しかし、傾向としてリベラルはこの点をおおむね正しく理解しているのに対し、リベラルを批判する人は必ずしもそうでないように見受けられるため、基本的な前提の確認もかねて説明しておきます。

まず一口に「憲法」といっても、その概念は多義的なものであることに注意する必要があります。ここでその分類について詳細に述べるつもりはありませんが、世の中の多くの場面において問題とされているのは、立憲的意味の憲法です。これは自由主義に基づいて定められた国家の基礎法としての憲法をいうものであり、その趣旨を端的に表しているのが「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」とするフランス人権宣言16条*1です。

このような立憲的意味の憲法においては、国家権力を制限して広く国民の権利を保障することが、憲法の役割とされます。国家権力を憲法によって制限し国民の権利を保障しようとする「立憲主義」という考え方は、安保法制をめぐる国会審議が続く中、平成27年6月4日の衆議院憲法審査会において憲法学者の長谷部恭男らが言及したのを機に広く知られるようになったので、ご存知の方も多いと思います。(続く)

*1:http://ch-gender.jp/wp/?page_id=385

カテゴリ「わたリベ」について

「わたリベ」は、「わたしのかんがえたリベラル」の略です。

すでに述べたとおり、このカテゴリはわたしが「この程度は共有しておいてほしい」と思うような基礎知識について扱う記事のために設けたものです。最初は「基礎知識」や「憲法」といったカテゴリにしようかとも思ったのですが、それではほとんど基本書そのままの内容とならざるを得ず、あまりにもつまらないため「わたリベ」としました。ここで唐突にリベラルが出てくるのは、わたしが伝えたい基礎知識の多くがリベラルの基本的な考え方と関連しているように思われたからです。

もっとも、リベラルについて書くことは簡単ではありません。それは第一にわたし自身の立ち位置がリベラルとも言い切れないから。そして第二にリベラルが、哲学、法学、社会学政治学、あるいはそうした理論から離れた社会運動といった多くの分野に関係するものだからです。わたしは司法試験に合格しており法学についてはある程度精通していると言ってよいでしょうが、それ以外の分野については教養程度の知識しかありません。

リベラルとも言い切れず関係する分野の知識も完全でないわたしが書くものですから、当然そこで描かれるリベラル像は単なるわたしの妄想かもしれません。「わたしのかんがえたリベラル」というのは、そういう意味です。

本ブログの今後の運営方針等

  • これからは「この程度は共有しておいてほしい」と思うような基礎知識についても、本ブログで伝えていくことにしました。こうした基礎知識を扱う記事については、なるべく多くの方に共有してもらうため、できるだけ文字数を少なくするよう心がけようと思っています。おってこうした記事用の新カテゴリ「わたリベ」を設ける予定です。飽きっぽいのでどれだけ続くか分かりませんが、なんとか年内くらいはもたせたいです。
  • ツイッターをはじめました。あまり勝手が分かっていないので、注意するべき事項やフォローした方がよいアカウント等があれば教えてください。
  • ブログデザインを「Bordeaux」から「Popcorn by カタノトモコ」に変更し、背景色を初期設定に戻しました。また、サイドバーにツイッターのフォローボタンを追加しました。

アベ政治を許さない考

月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。

森敦『月山』*1

しかし「アベ政治を許さない」というのは不思議なフレーズです。散文的なようで、どこか詩情もある。激しているようで、懇々と諭すような穏やかさも感じられる。明快なようで、いまひとつつかみどころがない。このフレーズへの違和感を表明するエリさんの以下の記事を読み、なるほどそんなものかと思いつつ、しかし数年を経てなお人の心を波立たせるこのフレーズの奇妙な力に、私は今さらながら気づいたのでした。

「アベ政治を許さない」に感じる違和感 - 読む国会

このフレーズの妙味は、「安倍政権」ではなく 「アベ政治」と言い、「打倒」ではなく「許さない」と言った点にあります。「安倍政権」と言ってしまえば、その指し示すものは安倍政権そのものを措いて他になくなります。「打倒」も同様で、このように表現すればそれは退陣要求以外のものではなくなってしまうでしょう。ところが、「アベ政治を許さない」であれば必ずしもそうではない。「アベ政治」は、安倍政権に特徴的に見られる政治手法や、安倍におもねる自民党所属国会議員等の政治姿勢、あるいは安倍への忖度をくり返す官僚機構といった、ある種の政治体制とそれを支える多様な勢力のすべてを包含しうる語であり、「許さない」という少し曖昧な言い回しもそうした解釈を補強しています。

そしてこうしたことの結果としてもたらされるのが、 ある種の人びとの「発狂」です。「アベ政治を許さない」というフレーズは、多様な解釈が可能であるだけに、これに接する者の内奥を清かに照らし出します。もちろん、その人たちの心のうちにあるものが何かは分かりません。それは安倍政権への積極的支持であったり消極的支持であったりするでしょう。あるいは安倍政権を支持してはいないものの、これに対する批判の動きに積極的にコミットできていないという後ろ暗さかもしれません。いずれにせよ、それらの人びとは無意識のうちに、「自分はこのフレーズの攻撃対象となっている」と感じている。だからこそ、このフレーズに対しては「発狂」と表現するのがふさわしいような感情的反発が起こるのです。そのことは、たとえばこれが「安倍政権打倒」であった場合に同じような反発が生じるかどうかを考えてみれば、容易に了解可能でしょう。

また、「アベ政治を許さない」に対するお決まりの反発は「理由が示されていない」というものですが、これにも少々倒錯的なところがあります。まずはこのフレーズがデモ等のスローガンであることに注意を向けてください。以前どなたかにもお話しした記憶がありますが、デモとはつまり示威運動のことです。たとえば国会論戦などにおいて、野党からそれこそこれ以上ないほど明確に理由を示して批判が行われ、しかし与党はとりあおうとすらしない。そうしたことに対する抗議を威力を示してアピールするのが示威運動すなわちデモなのです。したがって多くの場合改めて示すまでもなくこれに先立つ議論において理由はすでに現れているし、その後の威力を示す場においてもはや理由が示されないのは自然でもある(プラカードに詳細な理由を列挙していったい誰が読むというのでしょう)。このことをよく心得ておかねばなりません。

安保法制、共謀罪、そして公文書改竄。大きなものだけを拾いあげてもすでに3つの問題にかかるデモ等において「アベ政治を許さない」というフレーズは掲げられてきましたが、これに先立って、理由を示した批判はつねに十分になされてきました。共謀罪については本ブログでもいくつか記事を書いているので、参考までに紹介しておきます。

共謀罪 カテゴリーの記事一覧 - U.G.R.R.

したがって、ある種の人びとが求める理由なるものは、このフレーズの前景をなすものとして、むしろこのフレーズよりも先に目に入っているはずなのです。ところが人びとはなぜかそのことに気づかない。あるいは応答することができないからこそ、意識的かどうかはともかくとしてそれらの理由を無視しているのでしょうか。いずれにせよ、彼らは周囲にひしめく理由に目もくれず、ひたすらデモ等において掲げるきわめて短い1フレーズに理由が盛り込まれていないことを難詰するのです。転倒したふるまいというほかないように思われます。

人びとの感情の流れに自らの望むような方向性を与えることができなければ運動としては無意味である。それはそうなのかもしれません。しかし、数年以上にわたり多くの人びとを「発狂」させ、その目を曇らせ続けてきた「アベ政治を許さない」というフレーズにはやはり力がある、と私は思うのです。

*1:引用文中の太字強調は原文で傍点が付されている箇所。

サヨナラ、ではない

以下の記事に接した。

「サヨクにサヨナラを」

アメリカで"#walkaway"というムーブメントが起きている、という内容だ。記事によれば、これはポリコレのバックラッシュとでも言うべきもので、「もう今の左派には付き合いきれない。サヨナラだよ」って感じの決別宣言、なのだそうだ*1

ところで、『ゲド戦記』で有名なアーシュラ・K・ル=グウィンに"The Ones Who Walk Away from Omelas"という短編がある*2。その邦訳「オメラスから歩み去る人々」は『風の十二方位』という短編集に収められている*3のだが、私が"#walkaway"と聞いて思い浮かべたのはこの作品のことだった。以下は同作の内容への言及を含む。 

風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

 

同作は一言でいうならば、ベンサム的な功利主義リベラリズムについて描いた作品だ。

オメラスというあらゆる美しさと喜びとで彩られた都にはしかし、市民の誰もが知る秘密がある。オメラスにあるなにかの建物の一室に、一人の子どもが閉じ込められているのだ。その子どもは、思い描くことのできる限りで最も惨めな扱いを、暗く狭い部屋で受け続けている。そしてオメラスにある幸せのすべては、その子どもの不幸によって贖われているのだ。

幸せの都、オメラス。

しかし不思議なことに、ときおりこの都の美しい門をくぐり歩み去っていく人々がいるのだという。

そんな話である。

 

作者は、「歩み去っていく人々はみずからの行先を心得ているらしい」と語る。しかし私にはとてもそうは思えない。なぜと言って、彼らはついに囚われた子どもを助け出すことはなかったからだ。

暗く狭い部屋で惨めな扱いを受ける子どもを残して都を去った彼らは、その後訪れるあらゆる町で囚われた子どもの存在を見出すことになるだろう。そしてその度に彼らはただ「歩み去る」。

彼らは苦悩にみちた放浪を続けるうちに、 町の人々すべての幸せのためたった一人の子どもに不幸を与えることは正しいのだと考えて自らの心を慰めようとするだろう。中には、囚われた子どもを憎みさえする者もいるかもしれない。彼らに行先などない。いや、ただ1つ、オメラスだけが彼らの行先でありうるのだ。

今回の"#walkaway" は、オメラスから歩み去った人々の顛末に他ならない。それゆえこれは、「サヨナラ」ではなく「ただいま」なのである。彼らはオメラスに戻ってきた。彼らの心に、もはや子どもに対する疚しさなどない。良心の呵責から解き放たれた彼らの子どもへの仕打ちは、より苛烈になるのかもしれない。いずれ子どもは死ぬだろう。そのときオメラスがどうなるのか、私には分からない。

*1:このような潮流が実際に存在するか、という点に疑義を呈する記事もすでに出ているが、今回はふれない。

*2:私に先んじてid:REVさんがすでに指摘しておられるのだが、REVさんのコメントの趣旨はよく分からないので教えてくださるとうれしい。

*3:同作の訳者は浅倉久志