公共の福祉とリベラル(4)

「公共の福祉」を人権に内在するものだとする考え方を説明し、これがリベラルも支持する現在の通説的な立場であると述べました

最後にケーススタディーとして、自民党憲法改正草案*1を見てみましょう。現行憲法中「公共の福祉」という文言が用いられている箇所についてはすでに紹介しましたが、草案中のそれらに対応する部分を引用します。

(国民の責務)

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

(人としての尊重等)

13条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

(居住、移転及び職業選択等の自由等)

22条 何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

○2 (略)

  (財産権)

29条 (略)

○2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。

○3 (略)

詳細な比較検討は各自で行っていただくとして、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変えられている点がまず目につくと思います。そしてここまで読み進めて来られたみなさんは、これがたとえば美濃部達吉の説いた「公共の安寧秩序」にとてもよく似ていることにもすぐ気づくでしょう。そう、これはかつて美濃部などがとった 「公共の福祉」を人権の外にあるものだとする考え方への回帰を目指すものであると考えられます。それゆえ、「公共の福祉」を人権に内在するものであると考えるリベラルはこれを批判するのです。

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年) 

*1:http://constitution.jimin.jp/draft/

公共の福祉とリベラル(3)

「公共の福祉」を人権に内在するものと捉えるかどうか、という視点を提示したうえで、まずは人権の外にあるものだとする考え方について紹介しました

しかし、今なおこうした考え方を支持するという人はあまりいません。それは、こうした考え方が「公共の福祉」を「公益」や「公共の安寧秩序」といった抽象的な概念として捉えるものであるため、恣意的な人権制限につながりかねないのではないか、という懸念によるものです。

かわってこんにちでは、「公共の福祉」をすべての人権に内在するものだとする考え方が通説的な地位を占めています。細かい部分ではバリエーションがあるのですが、たとえば宮沢俊義は、「公共の福祉」とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理でありすべての人権に論理必然的に内在しているとしたうえで、権利の性質によって制約の程度が異なる(自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉)、と解しています*1

リベラルも、「公共の福祉」を人権に内在する人権相互間の調整原理として理解しています。(続く) 

*1:芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)の説明を参考にしました。

自由主義が不自由を招く?

以下の記事とそれに対する反応を読みました。

どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠

はてなブックマーク - どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠

この手の話題でいつもおもしろいな、と思うのは次のようなことです。すなわち、私たちの社会はまだまだ至らぬ点もあり、ときには「後退」することさえあるけれども、全体としてみれば、個人主義自由主義の進展によってムラ社会的な抑圧からは解放されてきているはずです。そうであるにもかかわらず、むしろ(昔はそうでなかったのに)今は不自由である、抑圧されている、とする声は決して少なくないし、実際そうした面もないわけではないように見える。これはなぜなのか、ということです。

もちろん理由はさまざまにあるのでしょうが、私は、個人主義自由主義こそがこんにちの不自由や抑圧を生み出している面もあるのではないかな、という気が少ししています。

たとえば、かつての農村のような地域共同体においては、かなりの程度固定されたメンバーと長期間にわたって付き合っていくことが不可欠です。そのメンバーの中には、タバコを吸う人や痰・唾を吐く人、愛想の悪い人などもいるかもしれませんが、気に食わないからといってとりかえられない以上、甘受するよりない。そしてそんなクセの強い人であっても、実際に顔を合わせて日常的に交流していれば、多少のことは気にならなくなるものです。

また、こうした共同体で付き合っていくとはつまり、水路や農道を共同して管理するといった助け合いの関係を構築し維持するということであり、そこでは当然迷惑をかけることもあればかけられることもあります。そうした関係性の中では、たとえタバコの煙を多少迷惑に感じたとしても、あまり重く捉えず相対化して受け流しやすいようにも思われるところです。

ところが時代の流れとともにこうした共同体は解体され、かわって個人主義自由主義が幅を利かせるようになりました。

そこでは気に入らない人との関係はいともたやすく断ち切られ、自分にとって居心地のよいナカマだけのコミュニティが形成されていきます。それは「いやなものに無理にかかわる必要はない」という論理で正当化され、実際そのような面もあるとは思いますが、一方で気に入らない人とは人間として接することなく切断処理を行ってしまうという面もあることは否定しがたいところでしょう。

また助け合いが不可欠でなくなり「お互いさま」 の関係がなくなったことは、自由主義の名の下にさまざまな「○○の自由(○○する権利)」を唱える風潮と結びつき、人びとはわずかな不自由の甘受、つまり「迷惑」を被ることさえ拒否するようになりました。最近の出来事では、店員の些細なふるまいに激昂して難詰するモンスタークレーマーよろしく、不規則発言で質問の機会が奪われたと大騒ぎする弁護士の登場なども、あるいはその一例と言えるかもしれません。

以上を要するに、ムラ社会的なるものが解体され個人主義自由主義が幅を利かすようになった結果、異質な人間との地に足のついた交流の機会が減少し、そのような者への寛容さが失われていったという側面があるのではないか、ということです。

もとより、こうした変化は時代の流れによるものであり避けえなかったと言えましょうし、すでに農村的な地域共同体が失われている以上、再びこうした社会を目指すことも難しいでしょう。また冒頭掲記の記事への反応で多く指摘されているところとも関連しますが、かかる共同体においては差別的関係性が所与として組み込まれていることに基づく抑圧も多く存したのであり、そのような社会の方が望ましかったともまったく思いません*1。ただ、自由の敵と目されていたムラ社会的なるものにも自由を確保するような側面があり、逆に個人主義自由主義にも抑圧を招く側面があるのだとすれば少しおもしろく感ずる、というだけの雑記です。

公共の福祉とリベラル(2)

人権も決して無制約というわけではない。そして、その制約を論じる際に出てくるのが「公共の福祉」であるということを述べました

「公共の福祉」の意味をめぐってはこれまでに多くの議論がなされていますが、本記事ではその詳細に立ち入らずポイントのみを指摘します。それは、「公共の福祉」を人権に内在するものと考えるかどうか、ということです。

ある考え方は、「公共の福祉」を人権の外にあってそれを制約することのできる一般原理であるとします。たとえば、美濃部達吉は『新憲法逐条解説』において以下のように述べました*1

基本的人権は之を濫用してはならぬ。自由には責任心・自制心が必ず之に伴はねばならぬもので、自由であるからと言つて自分の欲する侭に如何なる事でも為し得るといふのではなく、他人の同様の権利及び自由を尊重しなければならぬことは勿論、公共の安寧秩序を紊乱してはならぬ。国民の基本的権利は唯此等の制限の下においてのみ認めらるるのである。

これは美濃部が憲法12条について解説した文章の一部ですが、ここでは「公共の安寧秩序を紊乱してはならぬ」という部分に注目してください。「公共の福祉」を人権の外にあるものだとする考え方は、このように「公共の福祉」を「公益」や「公共の安寧秩序」として理解するものなのです。(続く)

*1:文中の旧字については引用者において適宜改めました。

公共の福祉とリベラル(1)

憲法は、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」として保障しています。このことを規定した憲法11条を引用しておきますので、確認してください。

11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

もっとも、基本的人権も一切の制約を受けないというわけではありません。人間が社会の中で生きるものである以上、他者の人権との関係等によって制約を受けることもあります。そうした制約を論じる際に出てくるのが、「公共の福祉」ということばです。 

憲法の条文上、「公共の福祉」という文言が用いられるのは以下の4か所です。これらも引用しておきますので確認してください。 

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

○2 (略)

29条 (略)

○2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。

○3 (略)

(続く)

外国人の地方参政権とリベラル(2)

地方自治体レベルの参政権については、国政レベルの参政権とは異なる観点からの憲法上の要請があり、外国人にもこれを認めることができるかどうか議論の余地があるという話をしました

最後に、この問題について自民党改憲草案*1 がどのように考えているのかということを、参考までに紹介しておきます。現行憲法の93条2項と、この条文に対応する改憲草案の94条2項を、順に引用します*2

日本国憲法

第九十三条 (略)

○2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。

日本国憲法改正草案

第九十四条 (略)

○2 地方自治体の長、議会の議員及び法律の定めるその他の公務員は、当該地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する。

比較すれば明らかなとおり、改憲草案には「日本国籍を有する者」との文言が追加されています。

現行憲法下では、一定の外国人に対し地方公共団体における選挙権を付与するべく立法等の措置を講じることも禁止されていないとするのが判例*3の立場であることはすでに説明しました。しかし改憲草案では明確に「日本国籍を有する者」との文言が記載されているため、外国人に対して地方公共団体における選挙権を付与するような立法を行うことは違憲となります。

つまり、現行の憲法解釈が「外国人の地方参政権憲法上保障されているわけではない(付与しないからといって違憲の問題は生じない)が、逆に法律を制定してこれを付与することが憲法上禁止されているわけでもない」とする立場であるのに対し、改憲草案は「法律を制定して外国人に地方参政権を付与してはいけない(違憲である)」とする立場だということです。

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年) 

*1:http://constitution.jimin.jp/draft/

*2:太字強調は引用者による。

*3:最判平成7年2月28日(民集49巻2号639頁)。

外国人の地方参政権とリベラル(1)

以前リベラルの多くは国民主権を支持していると述べましたが、地方参政権については微妙なところがあります。国政レベルの参政権が国民のみに与えられることは国民主権の原理から自然なことですが、地方自治体レベルの参政権についても同じく国民のみに与えうるものと考えるべきかどうかということは、それほど簡単に結論が出せる問題でもないのです。

この点、地方公共団体もわが国の統治機構の不可欠の要素をなすものであることを考えれば、地方自治体レベルの参政権についても国民主権の原理とまったく無関係であるとは言えないでしょう。

しかし一方で、憲法地方自治についても独立の章を設けています。そしてその地方自治に関する諸規定は、住民の日常生活と密接な関連を有する地方自治体レベルの政治・行政についてはその区域の住民に任せることが適当であるとの趣旨に出たものと解されています。

そうすると、たとえ外国人であってもそこに定住し地域との緊密な関係を築くに至ったような人については地方自治体レベルの参政権を認めてもよいのではないか、という議論も出てくることになります。

この点に関連して、外国人の地方公共団体における選挙権が憲法上どのように位置づけられているかを判断した最高裁判決*1があります。同判決では、外国人の地方公共団体における選挙権は憲法上保障されているわけではないものの、法律を制定してこれを外国人に付与することも憲法上禁止されないとの判断が示されました。地方公共団体における選挙権を外国人に与えるかどうかは立法政策上の問題とされたのです。これも1つの考え方でしょう。

この問題についてのリベラルの考え方はさまざまであり、一概にこうだと言えるような状況ではありません。ただ、地方自治体レベルの参政権には、国政レベルの参政権とは異なる観点からの考慮もありうるということは押さえておいてください。(続く)

*1:最判平成7年2月28日(民集49巻2号639頁)。