天皇は得する側だろ、という視点も持ちたい

はじめに

やしお(id:Yashio)さんの以下の記事に接しました。

天皇個人への肯定と制度への否定が同居すること - やしお

まだざっと目を通しただけですが、興味深い部分もあるので、おってきちんと読むつもりです。ただ、こうした話題は時機を失するとあまりよくないので、とり急ぎ気になった点だけ、先に記事にしておこうと思います。

法解釈にかかる部分について 

まず法解釈にかかる部分について。

やしおさんは、天皇や皇族に日本国憲法第3章の「国民の権利及び義務」が適用されないと仰ります。しかしこのような見解は学説上一般的ではなく、裁判例もこうした見解をとってはいません。

たとえば、この点にかかる有名な裁判例として、富山地方裁判所平成10年12月16日判決(判タ995号76頁)があります。この事件は、天皇の写真を用いたコラージュ作品の扱いをめぐって争いとなったものですが、その中で天皇プライバシー権ないし肖像権が認められるのか、ということが問題となりました。この問題について富山地裁は、国民に憲法13条によってプライバシー権ないし肖像権が保障されていることを論じたうえで、以下のように述べています*1

そして、天皇憲法第三章にいう国民に含まれ、したがって、憲法の保障する基本的人権の享有主体であり、天皇の地位の世襲制天皇の象徴としての地位、天皇の職務からくる最小限の特別扱いのみが認められるものと解されるから、天皇にもプライバシーの権利や肖像権が保障されることとなる。ただし、天皇の象徴としての地位、天皇の職務からすると、天皇についてはプライバシーの権利や肖像権の保障は制約を受けることになるものと解するのが相当である。

要するに、天皇にも原則として基本的人権は保障されており、ただその地位等に照らして一定の制約があるにすぎない、としているのです。日本国憲法第3章の「国民の権利及び義務」が適用されないなどと考えられているわけではありません。

またやしおさんは、外国人についても「憲法は国民に対してのみ人権を保障している」などと述べていますが、これもやはり一般的な見解ではありません。

こちらについては更に有名な判例があるので、ご存知の方も多いでしょう。いわゆるマクリーン判決。最高裁昭和54年10月4日大法廷判決(民集32巻7号1223頁)です。この判例が、明確に「憲法第三章の規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ」と述べています*2。この点については、以前に記事を書いているので参照してください。

外国人の人権とリベラル(1) - U.G.R.R.

外国人の人権とリベラル(2) - U.G.R.R.

天皇は得する側では 

ここから先は、やしおさんの記事に限らない、やや一般的な話です。

上記のような法解釈上の疑義はあるにせよ、天皇制には天皇や皇族の人権を制約する側面がたしかに存在します。したがって、天皇や皇族に対する人権制約という見地から天皇制を廃止せよと主張することは正しい。……正しいのですが、ちょっと言われすぎじゃないですか。

少々品のない話になりますが、わたしたちは毎年毎年けっこうなお金を天皇がらみで吸い上げられているわけです。宮内庁のホームページ*3によれば、平成31年度の宮内庁関係予算は240億6378万1000円。これは決して少ない金額ではありません。

もう少し細かく見てみてもよいでしょう。宮内庁関係予算は皇室費宮内庁費とに分かれ、皇室費はさらに内廷費皇族費宮廷費の3つに分かれています。このうち内廷費とは天皇および内廷にある皇族の日常の経費等にあてられる(公的な費用については宮廷費でまかなわれる)ものですが、これが平成8年度以降は毎年3億2400万円も計上されています。この平成8年度の内廷費引上げに際しては共産党笠井亮が平成8年3月26日参議院内閣委員会において質問しているので紹介します*4

笠井亮君 まず、皇室経済法施行法の一部を改正する法律案について質問したいと思います。

(略)

今回の改定は内廷費皇族費を引き上げようとするものでありますけれども、例えば内廷費について見ますと、宮内庁がこれまで説明してきたと思うんですが、これをいわば天皇の給与のようなものだとするならば、三億二千四百万円にするという額、これには全く所得税がかからないわけです。仮に国民の給与と同じように所得税を課税すれば、国税庁の試算によりましても六億百万円にもなるということであります。これは三権の長の年俸の約十五倍、国家公務員の平均年俸にしてみれば百数十人分に相当すると思うんです。

しかも、この使途というのは、先ほど御説明ありましたけれども、御手元金ということで、つまり身の回りの私的に必要な費用だけを賄っていくということで、公的な生活に必要な経費は別個に宮廷費で賄われていると思うんです。そういう点についていささか高過ぎるじゃないかというふうに思うわけですが、(略)。

あまり深く考えたことがなかったのですが、三権の長年棒すらはるかに超えるような金額を、公的な生活とは別の日常の費用をまかなうものである内廷費として計上するのは不当ではないかという指摘には、少なくともわたしはなるほどと思わされました。

もちろん、こうした金額をどう評価するかというのは、人によって異なるだろうとは思います。しかしブックマークコメント等でも見られるように、まさに党派をこえて、天皇や皇族が、一般国民のために人権制約を受けいれてくれている、いわば人柱となってくれている、と言わんばかりの立場で一致するのは、やはりどう考えても少々いびつでしょう。それは、一歩間違えれば天皇や皇族の神聖視につながりかねない危険なものをはらんでいるように、わたしには思えます。たとえ人権制約を受ける面があるにせよ、報道ではこぞって敬称を用いられ、毎年それなりの金額を一般国民から吸い上げている天皇および皇族は、やはり全体として見たときには得する側でしょ、という見方は、むしろ自然なものであるはずです。最終的にどのような立場をとるにせよ、一度こうしたことに思いをめぐらせてくださる方が少しでも増えることを願います。 

*1:太字強調は引用者による。

*2:太字強調は引用者による。

*3:http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/yosan.html

*4:引用者において適宜省略し、太字強調を施しました。

天皇制を終わらせたいという気持ち

こんな匿名記事に接しました。

はてブはみんな天皇を信仰しているんだなぁ

退位関係の記事についたブックマークコメントを見て、「みんな無邪気に天皇を信仰しているんだな」との感想を抱いたというもの。信仰云々はさておくとしても、このひと月ほどの世間の異様な盛り上がりを見ていると、たしかに少々不安になるほどでしたね。

くる日もくる日も(元)天皇の話題をとりあげ続けるテレビ。といってもそれほどネタがあるわけでもないものだから、壊れたラジオのように(元)天皇と(元)皇后とのなれそめなんかをくり返すんですよね。「テニスコートの出会い」の話あたりは、それほどテレビを見ているわけでもない私でさえ、このひと月の間に3回くらい聞かされたんじゃないかな。

NHKも、驚くような「報道」をしていました。(元)天皇伊勢神宮参拝を報じる際に、「皇室の祖先の『天照大神』がまつられる伊勢神宮」とのたまったのでしたか*1。以前から、NHKに限らず日本の報道が皇室の人間に「陛下」「殿下」などの敬称を用い、その言動を(「○○した」でなく)「○○された」などと敬語で表現するのはいかがなものかと思ってきましたが、今回の件はそんなレベルを軽々と超越しており、なんというか、本当に「驚いた」としか言いようのない出来事でした。

私は、天皇制は将来的には廃止されるべき制度ではあるものの、当面はなりゆきに任せていればいいかな、と思ってきました。

廃止されるべきであると考える理由は単純で、天皇制が門地による差別そのものであり、すべての個人を人間として等しく尊重するべきであるという私の考え(それは日本国憲法の底流をなす精神でもあると思いますが)と相容れないからです。 

一方で当面はなりゆきに任せてもよいと考える理由は、今のところ多くの国民が天皇制を支持しているように見えるからです。(元)天皇が各地を訪問し、その土地の人びとに声をかけるとき、声をかけられた人びとがときに感きわまって泣き出すほどに喜ぶ様子を、私はテレビを通じて何度も見てきました。基本的に天皇制によって不利益な取扱いを受けることになるのは一般国民の側であり、その国民自身がこれほどまでに天皇(ひいては天皇制)をありがたがっているのであれば、少なくともすぐに天皇制を廃止するまでの必要はないかな、と考えてきたのです*2

しかしこのひと月ほどで改めて自覚したのですが、こうした私の考え方は、あることを前提としていたのですね。すなわち、天皇をありがたがっているのは基本的には高齢者であり、放っておけば勝手に熱狂は収束に向かう、ということです。そしてこれは、どうやら誤っていた。このひと月ほどの様子を見る限り、明らかに老いも若きも熱狂していますから。そりゃそうでしたね、考えてみれば。各種メディアがあれだけ連日天皇天皇がとくり返しているのだから、黙って見ていればこの差別的な制度への支持は再生産される。当然でした。

天皇制が門地のみによってある個人に特別の地位を与えるという制度であり、平等な個人の尊厳をふみにじるような要素を本質的に有している以上、国民の多数がさして痛痒を感じていないとしても、それはいずれ廃止されねばなりません。そしてその実現は、放っておいてもいずれ達成されるというものでは、必ずしもなかった。そのことを明確に認識することができたので、今後は機会があればもう少し強く自身の主張を打ち出していこうと思います。

天皇制反対。 

*1:https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/nhk

*2:なお、やたらと天皇の重責を強調する方がいますが、そうした方のほとんどが天皇は大変だ天皇は大変だと言いながら天皇制を支持しておられるのは全く理解できません。天皇制がそれほどの重責・負担を天皇に押しつけるものだというならば、そんな制度は直ちに廃止するべきでしょう。

その不安を切り捨てるのはちょっと

三橋順子のこんな記事に接しました。

なぜ2019年の日本で、トランスジェンダー女性たちが攻撃されているのか | 文春オンライン

お茶の水女子大がトランスジェンダー女子を受け入れる方針を発表したこと等に対する一部フェミニストの反発を批判する内容です。

私は、お茶の水女子大のトランスジェンダー女子受け入れ方針については、基本的に賛成です。しかし「トイレ、更衣室はどうするんだ」といった不安を、三橋のように「女子として受け入れる以上、トイレや更衣室をことさらに分けるのは論理的におかしい」などと簡単に切り捨ててしまうことは容認できません。

みなさん都合よく忘れられているようですが、お茶の水女子大のこのニュースが最初に報じられたとき、百田尚樹はなんと言いましたか。

冗談にしてもおぞましいのですが、「(百田自身が)お茶の水女子大学に入学を目指す」、そう言い放ったのです。百田はたまたま著名であるから目についただけで、同じような発想をする者はほかにも大勢いるでしょう。百田のこのおぞましい発言は看過される一方で、こうした発言があることに照らせば十分に理由があるはずの「トイレ、更衣室はどうする」といった不安は「トランスジェンダー差別」だとされ、ほとんど袋叩きに近いような激しい攻撃にさらされる。きわめて歪な状況です。

誤解してほしくないのですが、私は三橋のようなトランスジェンダーの当事者が上記のような不安を根拠なきものだとして棄却しようとすること自体は理解できるのです。ただその一方で、いわゆる「普通」の女性もまたこの問題の当事者であり、彼女らの不安も十分配慮に値するはずのものであるにもかかわらず、それがあまりにも軽視されすぎてはいないでしょうか。これが私の言いたいことなのです。私の過去のブックマークコメントを再掲しておきます。

フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します。 - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

性の平等を推し進める立場からこう主張されるのは理解できる。だが例えば男性器を持つ方に女湯の利用を遠慮頂くのは社会として仕方ない部分もあろう。相当激しい主張なのにツイフェミ憎しで同調されすぎていないか

2019/02/08 22:30

b.hatena.ne.jp

 

ちなみに、お茶の水女子大はトランスジェンダー女子の受け入れにあたって、トイレや更衣室などを整備するようですので、上記のような不安についてはクリアされるものと思われます*1。私がお茶の水女子大の受け入れ方針に賛成するのは、そのことも大きな理由の一つです。

それにしても、この問題では「ポリコレ」云々と大騒ぎする人は現れないんですね。「トランスジェンダーを差別するな」なんていうのはまさに「ポリコレ」ど真ん中だと思うのですが。

「男性差別」自体を批判すればいいのに

こんな匿名記事に接しました。

一つでも当てはまった男はブクマ禁止な!

身長やら体型やら収入やらといった項目を列挙し、1つでもあてはまるものがある男はブックマークするな、というもの。たわいないと言えばたわいないのですが、性的な偏見を固定化するものであり、感心しません。こうした偏見が社会に根づいていることを指して「男性差別はある」というのであれば、それはたしかにあるだろうな、と思います。

ところで、この記事を書いたのはいったいどのような人物なのでしょうね。もちろん匿名なので推測するよりないのですが、少なくとも反差別の立場をとる者ではなさそうです。どこまで自覚的であるかは人によって異なるでしょうが、記事で挙げられているような項目を理由として人を揶揄することに賛同するかと正面から問われれば、基本的にはノーと答えるのが反差別の立場だからです。十分に自覚的でないためこうした「ネタ」にのってしまうことはあっても、あえて自分からこうした「ネタ」を発信することは、反差別の立場をとる者であればないと思います。

これは何もこの記事に限ったことではありません。反差別の立場をとる者がいわゆる「男性差別」に関して批判されている場面を時折見かけますが、たいていの場合、そこでは反差別の立場をとる者自身が「男性差別」をしているというわけではありません。彼らはただ、反差別を掲げながら「男性差別」に関しては黙認しており「ダブスタ」だ、として批判されているのです*1

考えてみればこれは当然のことです。反差別の立場をとる者は、そのような立場をとる以上、どのような種類のものであれ、差別的な側面を有する行いや状況等を積極的に肯定したりはしません。それは「男性差別」についても同様であり、少なくとも積極的に「男性差別」を行う割合は、むしろいわゆる「普通の」人よりもはるかに小さいでしょう。

ところが、実際に「男性差別」が云々されるのは、ほとんど反差別(あるいはフェミニズム)の「ダブスタ」 を糾弾する文脈においてのみです。「男性差別」それ自体*2に対してはまともに声を上げず、「男性差別」に対する反差別(あるいはフェミニズム)の単なる不作為を攻撃することに終始している昨今の状況を見るにつけても、彼らは「男性差別」などどうでもよく、単に反差別(あるいはフェミニズム)に反発したいだけなのだろうな、と思わざるを得ないのです。

*1:なお私は、本当にそのように言えるかどうか疑わしい場合が多いと思っています。

*2:それはおそらく今回の記事も含め多くの場合反差別の立場をとる者自身によってなされたものではないでしょう。

池袋の事故が騒がれた理由(推測)

かなり下品な話題ではあるのですが、詳しい方がいればご教示いただきたいという気持ちが勝ったので書くことにします。2名が死亡した池袋の事故に関して、きょうもえ(id:kyoumoe)さんの以下の記事に接しました。

「回復を待って逮捕」を知らない人間は普段ニュースを見ていないのでは - 今日も得る物なしZ

記事は、「現行犯逮捕されないのはおかしい」といった類の主張に対して、「回復を待って話を聞く」のはよくあることであると指摘するものです。この指摘はまったくおっしゃるとおりだと思います。

ただ、今回の件がこれほどまでの騒ぎになった原因は、多分そこではないんですよね。きょうもえさんが「上級馬鹿」と揶揄される人たちも、さすがにニュースを見ないということもないでしょうから、単に自身の抱く違和感の根本を自覚できていないだけではないかという気がします。

本件の発端となったニュース記事はこちら。

池袋暴走、ドラレコに音声 87歳男性「あー、どうしたんだろう」同乗の妻の問いに - 毎日新聞

同記事に接したとき、率直に言って私も一瞬わずかに違和感を抱きました。冒頭部分を引用します*1

19日午後0時25分ごろ、……板橋区の無職、飯塚幸三さん(87)の乗用車が……暴走し、……自転車の母と娘2人が死亡、飯塚さんを含む40~90代の男女8人が重軽傷を負った。

ご覧のとおり、暴走車を運転していた男性の氏名が、なぜか「さん」付けで記載されているのです。

たしかに警察が「回復を待って話を聞く」こと自体はよくありますし、そのようなニュースが報じられることも珍しくありません。しかしそうした場合、「話を聞」かれる人物は、「男」や「男性」などとされるのが一般的ではないでしょうか。それが今回は「さん」付けされている。このことが何とはなしに「特別扱い」の印象を与え、しかしそうした印象の出所を明確に自覚できない人たちが、むりやり「現行犯逮捕されないのはおかしい」などといった理屈を後づけで考え出して大騒ぎした、というのが今回の騒動の仕組みでしょう。

ちなみに、ではなぜ今回は「さん」付けされているのか。

私は、いまのところ、その原因は男性の弁解(?)にあるのではないかと考えています。すなわち、暴走車を運転していた男性の「アクセルが戻らなくて」といった弁解(?)から、事故が自動車の不具合に起因する、つまり男性自身も「被害者」である可能性を視野にいれて記事を書いた結果、あのような書きぶりになったのだ、ということです。

もっとも、私はいわゆる「報道のお作法」に詳しくありませんし、特別に調べたりもしていません。なので、「それは違う。その理由はこうだ」と説明できる詳しい方がいれば、ぜひご教示いただきたく思います。

*1:引用者において一部省略し、また太字強調を施しました。

飽きもせずに同じことを……

とりあえず

なんでもいいから書いておかないと、どんどんブログ更新が億劫になってしまう……。

「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」。漫画家・楠本まきはなぜ登場人物にこう語らせたのか | ハフポスト

楠本まき"ジェンダーバイアスのある漫画を規制しろ" 少女漫画家が唱える自分勝手なファシズムの恐ろしさ - Togetter

新しいことは書かないし、多少不正確にもなるけどご了承ください。詳細はリンク先の各拙記事を参照ということで。

進歩がない

ジェンダーバイアスに関するなんらかのガイドラインを設けては、というくらいの主張に対して、分かってない感じの人たちが分かってない感じの大騒ぎをくりひろげるといういつものやつ。本当に進歩がない。

まあ進歩がない理由については分かっていて、相手の主張をきちんと理解しようという姿勢がないからなんだよね。

もう書いた。

聞く力のきたえ方 - U.G.R.R.

ガイドラインが「強制」ですか(笑) 

それにしてもこの種のヒステリックな反発をする人たちって、ほんとに言葉が軽いよなあ。ガイドラインの策定程度のことが「強制」で「全体主義」ですか。(表現の自由をはじめとする)憲法上の権利が一次的には対国家的なものであるということすら意識してないから、こういう反応になっちゃうのかな。

ガイドラインに強制力なんてないし、そもそも冒頭の記事でガイドライン策定を提案してる楠本さん自身、ガイドラインにふれるような表現も載せうるとはっきり言ってるんだけどな。

これももう書いたな。

表現規制とリベラル - U.G.R.R.

不快を理由にした規制もありうる - U.G.R.R.

危害原理(笑) 

そうそう、こういう話をしてると、「他者の権利を侵害する場合でない限り、表現の自由を制約することは許されない」的なことをうわ言のようにくり返す人が現れるよね。いわゆる危害原理(笑)。

でも危害原理って、一部の特殊な人たちが信仰してる宗教みたいなものというか、まあはっきり言って幻想で、現実にはまったくそんなことないから。個人の権利に還元できない社会的な利益のために表現が規制されてる例なんていくらでもあるよ。

ついでに言っておけば、こうした社会的な利益とか、さらには権利侵害の有無も、実務上往々にして社会通念に照らしてその判断がなされるわけで、こういう社会通念を「個人のお気持ち」だとか「単なる主観」だとか言って勝手に矮小化しちゃうのも「お花畑」的だよね。

このあたりのことも書いたんだよなあ。

危害原理という信仰 - U.G.R.R.

太宰メソッドを越えて - U.G.R.R.

不快を理由にした規制もありうる - U.G.R.R.

結局

ぜんぶもう書いてるわけですよ。進歩のない人たちが同じ話をくりかえしてて、こっちも倦まずに同じ話をし続けなければならないのかもしれないけど、まあ徒労感はある。

記事の修正

以下の過去記事を読み返す機会があったのだが、その際文章として少し気になる部分があったので修正を施した。内容面での追加、変更等を伴うものではない。

国民主権とリベラル(4) - U.G.R.R.