無学の「フェミ」叩き
まともに勉強したこともない人が撒き散らす主張の数々は、当然のことながら基本的に頓珍漢でとりあう価値のないものです。その理由についてはかつてやや詳しく述べましたが、簡単にまとめると、以下のような感じです。すなわち、社会科学系の学問においてある程度まともなことを言おうと思えば、過去の議論を参照し、自身の主張あるいは批判対象となる主張がその中でどのように位置づけられるのか、といったことを確認するのが必須の作業となるのですが、まともに勉強したこともない人にそんな作業ができるはずもなく、結果として彼らの主張は場当たり的な抽象化・相対化をくりかえすだけに終わってしまうからです。こちらの拙記事を参照してください。
この文脈で語っていいものかどうか、門外漢なのでやや不安もあるのですが、先ほど見かけた上野千鶴子のハイヒールに関する発言への反発も、不勉強な人びとの頓珍漢な主張の類であるように、私の目には見えました。
上野千鶴子氏「ハイヒールの様な不自然な靴を美しいと感じて履いているなんて野蛮だと思う」 - Togetter
ここでは、「ハイヒールの靴は全部捨てました。こんな不自然な靴を美しいと感じて履いているなんて野蛮だと思う。」との上野の発言に対して、「他人の好みを野蛮呼ばわりするな」「価値観の押しつけだ」といった感じの月並みな批判がズラリと並んでいるのですが、こういうのが先ほど紹介した拙記事でも少しふれている「何事に対しても斜にかまえ、相対化しては悦に入る」態度の好例なのだろうと思います。あるいは「個人主義・相対主義の腐ったようなの」とでも表現した方が分かりやすいでしょうか。この手の批判はなーんにも勉強しなくても誰にでも言えますし、どんな話題に対しても言えます。そしてそんな批判には基本的にとりあう価値のないことは、もう述べました。
言うまでもなく、上記の発言で上野が(一次的に)問題としているのは、 ハイヒールを美しいと感じて履く個人ではありません。
(私と同じく)一般教養程度にでも社会学をかじったことのある方であれば当然ご存じでしょうが、ウェーバーと並ぶ社会学の巨人、エミール・デュルケムは、個人の外にあって個人の行為や考え方を拘束する、社会的事実というものがあると考えました。ものすごく乱暴にまとめてしまえば、ある人がある考えを抱くのは、社会によってそう仕向けられている面もあるということです。
一例として、フェミニストとして有名な田嶋陽子の「自分の足を取りもどす」*1という論考を紹介します。味わいのある文章なのでぜひ原文にもあたっていただきたいのですが、この論考の中で田嶋は、ハイヒールを履いてみんなに賞めそやされる少し年上の姉妹を見て、自分も大きくなったらああいう風にハイヒールを履いてきれいになろうと決心したと述懐しています。ここにいう「賞めそやすみんなの声」が、つまり社会です。「ハイヒールが好き」「ハイヒールを履きたい」という好みは、陰に陽に社会の影響を受けて形成されているということです。
そして、ここまで述べれば明らかでしょうが、上野が(デュルケムと同じ仕方でかどうかはともかくとして)問題としているのは、この社会の方なのです。「ひどい! ハイヒールが好みだって人もいるんですよ!」そりゃいるでしょう。でもね、その「好み」はあなた自身が本当の意味で自由に選びとったものですか? 社会に都合よく誘導されているのかも。一度そこに疑いの目を向けてみませんか? これが上野の言わんとするところです。
しかも、その問いかけは必ずしも他者にのみ向けられているわけでもない。先の発言の中で上野は「ハイヒールの靴は全部捨てました」と述べていますが、このことは彼女自身もハイヒールの靴を持っていたこと、すなわちフェミニストである彼女でさえ社会に拘束されており、そこから逃れるのが容易でなかったことを示しています(ちなみに、田嶋も先の論考において、「男社会に言いくるめられて」自分の大きな足を恥じるようになり、そこから脱却するのは容易でなかったとふりかえっています)。その意味で、上野の問いかけは自省の言葉でもあると見るべきでしょう。
……とまあ、まったくの専門外である私程度の知識でもこのくらいは考えが及ぶし、そうすると当然軽々に批判なんてできないわけですが、不勉強な人に限ってなーんにも考えずに「好みは人それぞれ!」などと叫び、それでやりこめたつもりになってるんですからね……。そりゃ「もうちょい勉強しろよ」とも言いたくなるでしょうし、その流れで「大卒」なんて言葉を持ち出してしまう人もいるかもしれません。まあ、実際には当該の分野についてきちんと勉強をしたかどうかが重要なのであって、大学を出ていても話にならない人なんていくらでもいるので、あの表現は二重の意味で妥当でないと思いますけどね。
【2019年9月25日23時54分追記】
本記事の前半部と脚注2を一時的に削除しております。
おって体裁を整えるつもりでいますが、ご存じのとおり飽きっぽい性分なので、当分このままかもしれません。
【2019年9月26日追記】
追記部分を文章末尾に移しました。また、25日付追記時点では、本記事本文の冒頭は「さて、まともに勉強したこともない人が……」となっていたところ、「さて、」を削除しました。たぶん、これ以上手を加えることはないと思います。
なお、25日付追記中「脚注2」とあるのは、「脚注2つ」に改めます。
*1:https://tajimayoko.com/topics/entry-54.html
不同意性交の基礎知識
以下の記事に接しました。
「同意ない性交は犯罪」法改正求め、4万5千人署名提出:朝日新聞デジタル
強制性交罪等における「暴行・脅迫」要件等を撤廃し、不同意性交を犯罪とする法改正を求める約4万5875人分の署名が法務省に提出されたことを報じるものです。
この記事をうけて、例によってよく知りもしない人たちが大騒ぎしているので、うんざりしますが簡単に問題の所在を説明しておこうと思います。
現行法上、強制性交等罪の成立には「暴行又は脅迫」、準強制性交等罪の成立には「心神喪失若しくは抗拒不能」が求められています。
(強制性交等)
第百七十七条 十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛こう門性交又は口腔くう性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の者に対し、性交等をした者も、同様とする。
(準強制わいせつ及び準強制性交等)
第百七十八条 (略)
2 人の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、性交等をした者は、前条の例による。
そして、これらの要件はかなり厳しい。ここにいう「暴行・脅迫」は相手方の反抗を著しく困難にする程度のものであることを要求されますし*1、「心神喪失」は性的行為につき判断力を持たない状態、「抗拒不能」はそれ(心神喪失)以外で抵抗が著しく困難な状態をいうもので*2、やはりハードルとしてはかなり高いものです。
法改正を求める人びとは、こうした高いハードルが課せられる結果として、本来罰せられるべき行為が罰せられていないケースがあると考えているのだと思います。19歳の娘と性交して準強制性交等罪に問われた父親について、娘の同意は存在しなかったとしながらも、抗拒不能だったとは言えないとして無罪を言い渡した先日の名古屋地裁岡崎支部の判決なども、その一例かもしれません。
19歳の娘に対する父親の性行為はなぜ無罪放免になったのか。判決文から見える刑法・性犯罪規定の問題(伊藤和子) - 個人 - Yahoo!ニュース
さて、ここで重要なのは、「暴行・脅迫」要件等を撤廃し、不同意性交を犯罪とすることで、どのような変化が生じるのか、ということです。先に結論を言ってしまうと、特に変化は生じません。……というと大げさで、実務的にそれなりの変化が生じるだろうとは思うのですが、少なくとも法律をご存じないみなさんが想像するような大変化はまったく生じません。
これは、「疑わしきは被告人の利益に」の原則、いわゆる利益原則と関係しています。利益原則の適用を受ける結果、犯罪事実について存否が不明である場合、その犯罪事実はいわば無いものと扱われ、被告人には無罪が言い渡されます。これが「検察官が犯罪事実について挙証責任を負う」ということです。
ここまで説明すればもうお分かりでしょう。たとえば「同意なく性交等をした者は、○年以上の有期懲役に処する。」というような条文が定められた場合、この「同意なく」というのも当然犯罪事実の一部をなすものですから、これについて検察官が合理的疑いを容れない程度に立証しない限り、被告人は無罪となるのです。
そして、この「同意なく」を立証するためには、「暴行・脅迫」要件等ほど明確なものではないにせよ(現行法は、こうした要件によって被害者の不同意を判断している側面があるのです)、なにかしらの徴憑は間違いなく必要になります。ですから、「暴行・脅迫」要件等の撤廃、不同意性交の犯罪化というのは結局のところ、良くも悪くも、要件の緩和という話でしかないのです。
はてなブックマークでは、性交の原則禁止だの、同意の証明を求められるだのと想像力のたくましい人たちが色々な心配をしているようですが、当然ながらそのようなことにはなりませんので、安心(?)してください。
取調べの録音・録画
この2件が同日に報じられるのは、なかなか皮肉がきいていますね。
前者は、一定の事件について取調べの全過程を録音・録画することが義務づけられたことを報じるもの。後者は、警察官数人がかりで押さえつけて取調べを行っていたところ容体が急変し意識不明となっていた器物損壊の被疑者が死亡したことを報じるものです。
録音・録画義務化の根拠規定は、刑事訴訟法301条の2第4項です。この程度の規定であっても、たしかに前進ではあると思います。でもねえ……。
後者の取調べは5月中、すなわち前者で報じられている義務化の前に行われたもののようです。しかし、仮にこれが義務化後に行われていたとしても、警察には録音・録画の義務はありませんでした。
大雑把にいうと、刑事訴訟法301条の2第4項が司法警察職員に原則として録音・録画するよう義務づけているのは、以下の2つの場合です。
そして、後者の事件の被疑事実は器物損壊です。器物損壊等については、刑法261条が以下のように規定しています 。
(器物損壊等)
第二百六十一条 前三条に規定するもののほか、他人の物を損壊し、又は傷害した者は、三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料に処する。
ご覧のとおり、器物損壊等の法定刑は3年以下の懲役または30万円以下の罰金もしくは科料であり、死刑または無期の懲役もしくは禁錮にあたる罪にかかる事件にはあたりません。また当然ながら、故意の犯罪行為によって被害者を死亡させるような事件にもあたりません。
したがって、たとえ義務化後であったとしても、警察には後者の事件の取調べを録音・録画する義務は生じないのです*1。なんというか、取調べの録音・録画に対する取り組みが不十分であることをこの上ないタイミングで裏づけた、2件のニュースであるなあと思った次第です。
*1:なお、義務なき場合でも必要に応じ取調べの録音・録画をすることは妨げられませんので、実際に行われた後者の取調べについて録音・録画が残っている可能性はあります。
天皇は得する側だろ、という視点も持ちたい
はじめに
やしお(id:Yashio)さんの以下の記事に接しました。
まだざっと目を通しただけですが、興味深い部分もあるので、おってきちんと読むつもりです。ただ、こうした話題は時機を失するとあまりよくないので、とり急ぎ気になった点だけ、先に記事にしておこうと思います。
法解釈にかかる部分について
まず法解釈にかかる部分について。
やしおさんは、天皇や皇族に日本国憲法第3章の「国民の権利及び義務」が適用されないと仰ります。しかしこのような見解は学説上一般的ではなく、裁判例もこうした見解をとってはいません。
たとえば、この点にかかる有名な裁判例として、富山地方裁判所平成10年12月16日判決(判タ995号76頁)があります。この事件は、天皇の写真を用いたコラージュ作品の扱いをめぐって争いとなったものですが、その中で天皇にプライバシー権ないし肖像権が認められるのか、ということが問題となりました。この問題について富山地裁は、国民に憲法13条によってプライバシー権ないし肖像権が保障されていることを論じたうえで、以下のように述べています*1。
そして、天皇も憲法第三章にいう国民に含まれ、したがって、憲法の保障する基本的人権の享有主体であり、天皇の地位の世襲制、天皇の象徴としての地位、天皇の職務からくる最小限の特別扱いのみが認められるものと解されるから、天皇にもプライバシーの権利や肖像権が保障されることとなる。ただし、天皇の象徴としての地位、天皇の職務からすると、天皇についてはプライバシーの権利や肖像権の保障は制約を受けることになるものと解するのが相当である。
要するに、天皇にも原則として基本的人権は保障されており、ただその地位等に照らして一定の制約があるにすぎない、としているのです。日本国憲法第3章の「国民の権利及び義務」が適用されないなどと考えられているわけではありません。
またやしおさんは、外国人についても「憲法は国民に対してのみ人権を保障している」などと述べていますが、これもやはり一般的な見解ではありません。
こちらについては更に有名な判例があるので、ご存知の方も多いでしょう。いわゆるマクリーン判決。最高裁昭和54年10月4日大法廷判決(民集32巻7号1223頁)です。この判例が、明確に「憲法第三章の規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ」と述べています*2。この点については、以前に記事を書いているので参照してください。
天皇は得する側では
ここから先は、やしおさんの記事に限らない、やや一般的な話です。
上記のような法解釈上の疑義はあるにせよ、天皇制には天皇や皇族の人権を制約する側面がたしかに存在します。したがって、天皇や皇族に対する人権制約という見地から天皇制を廃止せよと主張することは正しい。……正しいのですが、ちょっと言われすぎじゃないですか。
少々品のない話になりますが、わたしたちは毎年毎年けっこうなお金を天皇がらみで吸い上げられているわけです。宮内庁のホームページ*3によれば、平成31年度の宮内庁関係予算は240億6378万1000円。これは決して少ない金額ではありません。
もう少し細かく見てみてもよいでしょう。宮内庁関係予算は皇室費と宮内庁費とに分かれ、皇室費はさらに内廷費・皇族費・宮廷費の3つに分かれています。このうち内廷費とは天皇および内廷にある皇族の日常の経費等にあてられる(公的な費用については宮廷費でまかなわれる)ものですが、これが平成8年度以降は毎年3億2400万円も計上されています。この平成8年度の内廷費引上げに際しては共産党の笠井亮が平成8年3月26日参議院内閣委員会において質問しているので紹介します*4。
○笠井亮君 まず、皇室経済法施行法の一部を改正する法律案について質問したいと思います。
(略)
今回の改定は内廷費と皇族費を引き上げようとするものでありますけれども、例えば内廷費について見ますと、宮内庁がこれまで説明してきたと思うんですが、これをいわば天皇の給与のようなものだとするならば、三億二千四百万円にするという額、これには全く所得税がかからないわけです。仮に国民の給与と同じように所得税を課税すれば、国税庁の試算によりましても六億百万円にもなるということであります。これは三権の長の年俸の約十五倍、国家公務員の平均年俸にしてみれば百数十人分に相当すると思うんです。
しかも、この使途というのは、先ほど御説明ありましたけれども、御手元金ということで、つまり身の回りの私的に必要な費用だけを賄っていくということで、公的な生活に必要な経費は別個に宮廷費で賄われていると思うんです。そういう点についていささか高過ぎるじゃないかというふうに思うわけですが、(略)。
あまり深く考えたことがなかったのですが、三権の長の年棒すらはるかに超えるような金額を、公的な生活とは別の日常の費用をまかなうものである内廷費として計上するのは不当ではないかという指摘には、少なくともわたしはなるほどと思わされました。
もちろん、こうした金額をどう評価するかというのは、人によって異なるだろうとは思います。しかしブックマークコメント等でも見られるように、まさに党派をこえて、天皇や皇族が、一般国民のために人権制約を受けいれてくれている、いわば人柱となってくれている、と言わんばかりの立場で一致するのは、やはりどう考えても少々いびつでしょう。それは、一歩間違えれば天皇や皇族の神聖視につながりかねない危険なものをはらんでいるように、わたしには思えます。たとえ人権制約を受ける面があるにせよ、報道ではこぞって敬称を用いられ、毎年それなりの金額を一般国民から吸い上げている天皇および皇族は、やはり全体として見たときには得する側でしょ、という見方は、むしろ自然なものであるはずです。最終的にどのような立場をとるにせよ、一度こうしたことに思いをめぐらせてくださる方が少しでも増えることを願います。
天皇制を終わらせたいという気持ち
こんな匿名記事に接しました。
退位関係の記事についたブックマークコメントを見て、「みんな無邪気に天皇を信仰しているんだな」との感想を抱いたというもの。信仰云々はさておくとしても、このひと月ほどの世間の異様な盛り上がりを見ていると、たしかに少々不安になるほどでしたね。
くる日もくる日も(元)天皇の話題をとりあげ続けるテレビ。といってもそれほどネタがあるわけでもないものだから、壊れたラジオのように(元)天皇と(元)皇后とのなれそめなんかをくり返すんですよね。「テニスコートの出会い」の話あたりは、それほどテレビを見ているわけでもない私でさえ、このひと月の間に3回くらい聞かされたんじゃないかな。
NHKも、驚くような「報道」をしていました。(元)天皇の伊勢神宮参拝を報じる際に、「皇室の祖先の『天照大神』がまつられる伊勢神宮」とのたまったのでしたか*1。以前から、NHKに限らず日本の報道が皇室の人間に「陛下」「殿下」などの敬称を用い、その言動を(「○○した」でなく)「○○された」などと敬語で表現するのはいかがなものかと思ってきましたが、今回の件はそんなレベルを軽々と超越しており、なんというか、本当に「驚いた」としか言いようのない出来事でした。
私は、天皇制は将来的には廃止されるべき制度ではあるものの、当面はなりゆきに任せていればいいかな、と思ってきました。
廃止されるべきであると考える理由は単純で、天皇制が門地による差別そのものであり、すべての個人を人間として等しく尊重するべきであるという私の考え(それは日本国憲法の底流をなす精神でもあると思いますが)と相容れないからです。
一方で当面はなりゆきに任せてもよいと考える理由は、今のところ多くの国民が天皇制を支持しているように見えるからです。(元)天皇が各地を訪問し、その土地の人びとに声をかけるとき、声をかけられた人びとがときに感きわまって泣き出すほどに喜ぶ様子を、私はテレビを通じて何度も見てきました。基本的に天皇制によって不利益な取扱いを受けることになるのは一般国民の側であり、その国民自身がこれほどまでに天皇(ひいては天皇制)をありがたがっているのであれば、少なくともすぐに天皇制を廃止するまでの必要はないかな、と考えてきたのです*2。
しかしこのひと月ほどで改めて自覚したのですが、こうした私の考え方は、あることを前提としていたのですね。すなわち、天皇をありがたがっているのは基本的には高齢者であり、放っておけば勝手に熱狂は収束に向かう、ということです。そしてこれは、どうやら誤っていた。このひと月ほどの様子を見る限り、明らかに老いも若きも熱狂していますから。そりゃそうでしたね、考えてみれば。各種メディアがあれだけ連日天皇が天皇がとくり返しているのだから、黙って見ていればこの差別的な制度への支持は再生産される。当然でした。
天皇制が門地のみによってある個人に特別の地位を与えるという制度であり、平等な個人の尊厳をふみにじるような要素を本質的に有している以上、国民の多数がさして痛痒を感じていないとしても、それはいずれ廃止されねばなりません。そしてその実現は、放っておいてもいずれ達成されるというものでは、必ずしもなかった。そのことを明確に認識することができたので、今後は機会があればもう少し強く自身の主張を打ち出していこうと思います。
天皇制反対。
その不安を切り捨てるのはちょっと
三橋順子のこんな記事に接しました。
なぜ2019年の日本で、トランスジェンダー女性たちが攻撃されているのか | 文春オンライン
お茶の水女子大がトランスジェンダー女子を受け入れる方針を発表したこと等に対する一部フェミニストの反発を批判する内容です。
私は、お茶の水女子大のトランスジェンダー女子受け入れ方針については、基本的に賛成です。しかし「トイレ、更衣室はどうするんだ」といった不安を、三橋のように「女子として受け入れる以上、トイレや更衣室をことさらに分けるのは論理的におかしい」などと簡単に切り捨ててしまうことは容認できません。
みなさん都合よく忘れられているようですが、お茶の水女子大のこのニュースが最初に報じられたとき、百田尚樹はなんと言いましたか。
よーし、今から受験勉強に挑戦して、2020年にお茶の水女子大学に入学を目指すぞ!https://t.co/BTJZEw0p7u
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) July 4, 2018
冗談にしてもおぞましいのですが、「(百田自身が)お茶の水女子大学に入学を目指す」、そう言い放ったのです。百田はたまたま著名であるから目についただけで、同じような発想をする者はほかにも大勢いるでしょう。百田のこのおぞましい発言は看過される一方で、こうした発言があることに照らせば十分に理由があるはずの「トイレ、更衣室はどうする」といった不安は「トランスジェンダー差別」だとされ、ほとんど袋叩きに近いような激しい攻撃にさらされる。きわめて歪な状況です。
誤解してほしくないのですが、私は三橋のようなトランスジェンダーの当事者が上記のような不安を根拠なきものだとして棄却しようとすること自体は理解できるのです。ただその一方で、いわゆる「普通」の女性もまたこの問題の当事者であり、彼女らの不安も十分配慮に値するはずのものであるにもかかわらず、それがあまりにも軽視されすぎてはいないでしょうか。これが私の言いたいことなのです。私の過去のブックマークコメントを再掲しておきます。
フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します。 - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)
性の平等を推し進める立場からこう主張されるのは理解できる。だが例えば男性器を持つ方に女湯の利用を遠慮頂くのは社会として仕方ない部分もあろう。相当激しい主張なのにツイフェミ憎しで同調されすぎていないか
2019/02/08 22:30
ちなみに、お茶の水女子大はトランスジェンダー女子の受け入れにあたって、トイレや更衣室などを整備するようですので、上記のような不安についてはクリアされるものと思われます*1。私がお茶の水女子大の受け入れ方針に賛成するのは、そのことも大きな理由の一つです。
それにしても、この問題では「ポリコレ」云々と大騒ぎする人は現れないんですね。「トランスジェンダーを差別するな」なんていうのはまさに「ポリコレ」ど真ん中だと思うのですが。
「男性差別」自体を批判すればいいのに
こんな匿名記事に接しました。
身長やら体型やら収入やらといった項目を列挙し、1つでもあてはまるものがある男はブックマークするな、というもの。たわいないと言えばたわいないのですが、性的な偏見を固定化するものであり、感心しません。こうした偏見が社会に根づいていることを指して「男性差別はある」というのであれば、それはたしかにあるだろうな、と思います。
ところで、この記事を書いたのはいったいどのような人物なのでしょうね。もちろん匿名なので推測するよりないのですが、少なくとも反差別の立場をとる者ではなさそうです。どこまで自覚的であるかは人によって異なるでしょうが、記事で挙げられているような項目を理由として人を揶揄することに賛同するかと正面から問われれば、基本的にはノーと答えるのが反差別の立場だからです。十分に自覚的でないためこうした「ネタ」にのってしまうことはあっても、あえて自分からこうした「ネタ」を発信することは、反差別の立場をとる者であればないと思います。
これは何もこの記事に限ったことではありません。反差別の立場をとる者がいわゆる「男性差別」に関して批判されている場面を時折見かけますが、たいていの場合、そこでは反差別の立場をとる者自身が「男性差別」をしているというわけではありません。彼らはただ、反差別を掲げながら「男性差別」に関しては黙認しており「ダブスタ」だ、として批判されているのです*1。
考えてみればこれは当然のことです。反差別の立場をとる者は、そのような立場をとる以上、どのような種類のものであれ、差別的な側面を有する行いや状況等を積極的に肯定したりはしません。それは「男性差別」についても同様であり、少なくとも積極的に「男性差別」を行う割合は、むしろいわゆる「普通の」人よりもはるかに小さいでしょう。
ところが、実際に「男性差別」が云々されるのは、ほとんど反差別(あるいはフェミニズム)の「ダブスタ」 を糾弾する文脈においてのみです。「男性差別」それ自体*2に対してはまともに声を上げず、「男性差別」に対する反差別(あるいはフェミニズム)の単なる不作為を攻撃することに終始している昨今の状況を見るにつけても、彼らは「男性差別」などどうでもよく、単に反差別(あるいはフェミニズム)に反発したいだけなのだろうな、と思わざるを得ないのです。