外国人の地方参政権とリベラル(2)

地方自治体レベルの参政権については、国政レベルの参政権とは異なる観点からの憲法上の要請があり、外国人にもこれを認めることができるかどうか議論の余地があるという話をしました

最後に、この問題について自民党改憲草案*1 がどのように考えているのかということを、参考までに紹介しておきます。現行憲法の93条2項と、この条文に対応する改憲草案の94条2項を、順に引用します*2

日本国憲法

第九十三条 (略)

○2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。

日本国憲法改正草案

第九十四条 (略)

○2 地方自治体の長、議会の議員及び法律の定めるその他の公務員は、当該地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する。

比較すれば明らかなとおり、改憲草案には「日本国籍を有する者」との文言が追加されています。

現行憲法下では、一定の外国人に対し地方公共団体における選挙権を付与するべく立法等の措置を講じることも禁止されていないとするのが判例*3の立場であることはすでに説明しました。しかし改憲草案では明確に「日本国籍を有する者」との文言が記載されているため、外国人に対して地方公共団体における選挙権を付与するような立法を行うことは違憲となります。

つまり、現行の憲法解釈が「外国人の地方参政権憲法上保障されているわけではない(付与しないからといって違憲の問題は生じない)が、逆に法律を制定してこれを付与することが憲法上禁止されているわけでもない」とする立場であるのに対し、改憲草案は「法律を制定して外国人に地方参政権を付与してはいけない(違憲である)」とする立場だということです。

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年) 

*1:http://constitution.jimin.jp/draft/

*2:太字強調は引用者による。

*3:最判平成7年2月28日(民集49巻2号639頁)。

外国人の地方参政権とリベラル(1)

以前リベラルの多くは国民主権を支持していると述べましたが、地方参政権については微妙なところがあります。国政レベルの参政権が国民のみに与えられることは国民主権の原理から自然なことですが、地方自治体レベルの参政権についても同じく国民のみに与えうるものと考えるべきかどうかということは、それほど簡単に結論が出せる問題でもないのです。

この点、地方公共団体もわが国の統治機構の不可欠の要素をなすものであることを考えれば、地方自治体レベルの参政権についても国民主権の原理とまったく無関係であるとは言えないでしょう。

しかし一方で、憲法地方自治についても独立の章を設けています。そしてその地方自治に関する諸規定は、住民の日常生活と密接な関連を有する地方自治体レベルの政治・行政についてはその区域の住民に任せることが適当であるとの趣旨に出たものと解されています。

そうすると、たとえ外国人であってもそこに定住し地域との緊密な関係を築くに至ったような人については地方自治体レベルの参政権を認めてもよいのではないか、という議論も出てくることになります。

この点に関連して、外国人の地方公共団体における選挙権が憲法上どのように位置づけられているかを判断した最高裁判決*1があります。同判決では、外国人の地方公共団体における選挙権は憲法上保障されているわけではないものの、法律を制定してこれを外国人に付与することも憲法上禁止されないとの判断が示されました。地方公共団体における選挙権を外国人に与えるかどうかは立法政策上の問題とされたのです。これも1つの考え方でしょう。

この問題についてのリベラルの考え方はさまざまであり、一概にこうだと言えるような状況ではありません。ただ、地方自治体レベルの参政権には、国政レベルの参政権とは異なる観点からの考慮もありうるということは押さえておいてください。(続く)

*1:最判平成7年2月28日(民集49巻2号639頁)。

知識の足りない人が他人に「知識が足りない」と嘯くネット社会

ちょっとした地獄のような

きっとアルファなブックマーカーになるためには、日々生起するさまざまな出来事にいちいちコメントをつけ、観客に少しでも多く「この人は物事をよく知っている」と思ってもらわなければならないのでしょう。そのご苦労が大変なものであることは容易に想像できますし、感心するところがないわけでもありません。

しかし、さまざまな出来事のすべてに関して専門的な知識を身につけることなどおよそ無理な相談です。そして、そうであるにもかかわらず「よく知っている」と思ってもらえるようなコメントをするためには、どうしても知ったかぶりをすることになってしまうのでしょう。知ったかぶりはアルファの宿命であり仕方ないものかもしれませんが、せめて「知識が足りない」などと他者への攻撃性を発揮するのは慎んでもらいたいものです。

この人だけではないけれど

急にこんな話をするのは、以下の記事へのあるコメントがたまたま目にとまったからです。

性犯罪だからと言って90日近くの拘留が正当化できるわけではないと思う。 - 誰かの妄想・はてなブログ版

記事は、性犯罪の被疑者に対して逮捕がくり返され身体拘束が長期にわたっている事案について、日産のゴーン氏に対する身体拘束の場合とは異なりなんら問題視する声が上がらないことを指摘するもの。これに対して、tha_sun_also_rises(以下「再昇日」といいます)・the_sun_also_rises_sub*1が以下のようなコメントを付けていました。

性犯罪だからと言って90日近くの拘留が正当化できるわけではないと思う。 - 誰かの妄想・はてなブログ版

池谷伸也の容疑は数人の幼児へのレイプを含む25人超の幼児に対する強制性交・児童ポルノ法違反容疑。全て別件で1つの犯罪で90日の拘留なわけではない。刑法21条で未決拘留は刑期に算入できるので当件は問題ないよ。

2018/12/03 12:47

b.hatena.ne.jp

性犯罪だからと言って90日近くの拘留が正当化できるわけではないと思う。 - 誰かの妄想・はてなブログ版

↓30件以上の余罪を僅か30日で取り調べして立件することができるはずないだろ。今回は軽微な罪で逮捕し拘留期限を延長しているのではない。別の重犯罪の逮捕が5回行われた。それを同じものと捉えるのは知識が足りない

2018/12/03 13:25

b.hatena.ne.jp

「知識が足りない」などと説教をたれている再昇日氏ですが、過去記事*2でも指摘したように彼自身法律用語の理解が不正確であり、十分な法的知識があるようにはまったく思えません。今回のこの2コメントにも気になるところがあるので、簡単にだけ指摘しておきます。

「拘留」 

まず気になったのは「拘留」ですね。再昇日氏は短いコメントの中で3度もこの語を用いていますが、「拘留」は刑法16条に規定された刑罰の一種であり、本件のような場合に用いるのは誤りです。

(拘留)

第十六条 拘留は、一日以上三十日未満とし、刑事施設に拘置する。

逮捕に引き続いて行われる被疑者の身柄拘束について述べたいのならば「勾留」とするべきですし、もう少し広く身柄を押さえられること一般をいいたいのだとしても「身体拘束」などとするべきです。 

「30件以上の余罪を僅か30日で取り調べして立件することができるはずない」

これも気になりましたね。

まず「30日」という部分。文脈からして身体拘束の時間制限をいうものだと思うのですが、この点周知のとおり、逮捕の時間制限は最長で72時間*3、被疑者勾留の時間制限は原則10日、やむを得ない事由がある場合に限りさらに最長10日延長できるということになっており*4、起訴前の身体拘束について刑事訴訟法上「30日」などという時間制限を見出すことはできません。いったいこの数字はどこから出てきたのでしょうか……。

また、身体拘束中でなければ取調べを行い得ないかのような書きぶりも気になるところです。たとえば刑事訴訟法207条1項によって被疑者勾留の場合にも準用される同法60条1項をご覧ください。

第六十条 裁判所は、被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある場合で、左の各号の一にあたるときは、これを勾留することができる。

一 被告人が定まつた住居を有しないとき。

二 被告人が罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき。

三 被告人が逃亡し又は逃亡すると疑うに足りる相当な理由があるとき。 

○2 (略)

○3 (略)

一見すれば明らかなとおり、勾留は罪証隠滅や逃亡の防止を目的とするものであって、取調べの手段として行うものではありません。取調べは在宅の被疑者に出頭を求めるという形でも行うことができますし、実際にそのような形で取調べが行われるのはごく普通のことです。というよりも、身体拘束による心理的圧迫で供述が歪められるおそれを考えるならば、むしろ取調べは可能な限り身体を拘束せずに行うのが望ましいというべきでしょう。再昇日氏の書きぶりは、そうしたことをまるで理解していないように見えます。 

「刑法21条で未決拘留は刑期に算入できるので当件は問題ない」

「未決拘留」が「未決勾留」なのはすでに指摘したとおり。というか、実際に刑法21条をひけばちゃんと「未決勾留」と書いてあるはずなのになあ……。

それはそれとして、「刑期に算入できるので問題ない」というのもすごい言い草ですね。無罪だったら算入のしようがないわけですが、無罪推定どこいった、との思いを禁じ得ません。もとより私はここで話題にされている事件の詳細について知りませんし、結果として未決勾留日数が刑期に算入されるということにあるいはなるのかもしれませんが、それは結果オーライという以上の意味を持ち得ませんし、そもそも仮に刑期に算入されるということになったとしても、判決を経ずに刑罰を先取りするような状態が長期にわたって継続することがオーライ=問題ないかどうかという点にはきわめて疑義があると、私などは思ってしまいます。

なにかの参考になれば

だいたいこんなところです。

なんだか書いているうちにまともにとりあうべきものでもない気がしてきたのですが、せっかく書いたので一応公開しておきます。なにかの参考になれば幸いです。

*1:再昇日氏のサブアカウントだと思われます。

*2:なお、この過去記事は「デマ・誤情報」カテゴリに分類しています。私ははてなユーザーへの言及時には原則としてidコールを行いますが、「デマ・誤情報」カテゴリの記事で言及した人物に関しては、対話をするつもりがないためidコールを行いません。

*3:刑事訴訟法205条2項。

*4:刑事訴訟法208条1項、同条2項。なお本件とは関係ありませんが、内乱罪等特定の犯罪については刑事訴訟法208条の2に特別の規定があります。

外国人の人権とリベラル(2)

リベラルも判例*1と同様、基本的人権の保障は、権利の性質上国民のみを対象としているものを除き外国人にも及ぶと考えているけれど、重要なのはどのような人権がどの程度保障されるかということだ、と述べました

一例として紹介した判例を少し詳しく見てみましょう。これはマクリーンさんという外国人が在留期間の更新を法務大臣に申請したところ、政治活動等を理由に不許可とされたため*2、政治活動の自由は外国人にも憲法上保障されており、これを在留期間更新にあたって消極的な事情として考慮することは許されないのではないか等が問題となった事件です。俗に、「マクリーン事件」と呼ばれています。

この点判例は、基本的には外国人にも政治活動の自由が憲法上保障されているものの、その保障は外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎないので、在留期間更新にあたって政治活動を消極的な事情として考慮することは許されるとしました。リベラルの多くは、そのような考慮が外国人の政治活動に与える萎縮効果を懸念して、判例に批判的な立場をとっている(在留期間更新にあたって政治活動を消極的な事情として考慮することは許されないと考えている)ようです。

どのような人権がどの程度保障されるかというのはこういうことで、この判例では、政治活動の自由という人権が、外国人在留制度のわく内という程度で保障される(在留期間更新にあたって消極的事情として考慮されないという保障までは与えられていない)、という判断が示されたわけです。

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年) 

*1:最大判昭和54年10月4日(民集32巻7号1223頁)。

*2:ただし出国準備期間として120日の更新は許可されています。この処分を受けてさらに1年間の在留期間更新を申請したところ不許可とされた、という流れです。

外国人の人権とリベラル(1)

日本国憲法は第3章で基本的人権の保障について規定していますが、その表題は「国民の権利及び義務」となっています。そこでこの「国民」という文言をとらえて、「基本的人権が保障されるのは日本国民だけだ」と主張する人が、ときおり見受けられます。

しかし基本的人権のうちの少なからぬ部分は、人が人として生まれたことによって当然に認められる、国家を前提としない権利です(たとえば、自己の生命に対する権利など)。それゆえ、基本的人権が日本国民にしか保障されないと考えることは妥当ではありません。判例*1も、「憲法第三章の規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ」としています。

リベラルも、こうした判例の考え方に総論としては賛成しています。しかしここで重要なのは、では具体的に外国人に対してどのような人権がどの程度保障されるのか、ということです。(続く)

*1:最大判昭和54年10月4日(民集32巻7号1223頁)。

国民主権とリベラル(4)

ロールズの理論の背後にあるものと、「国民主権」の意味について説明しました

ロールズの理論の背後にある「何人も、偶然与えられたいかなる有利な条件についてであれ、これを排他的に保持する正当な根拠を有しない」という考え方を多くのリベラルは支持している。一方で、やはり多くのリベラルが支持している国民主権およびその前提としての国民国家という枠組みは、偶然にも国民という属性を有する者にのみ(=排他的に!)国政についての最高決定権を与えるものです。突き詰めていったときに、はたして両者を整合的に解釈することはできるのでしょうか。この点は私の専門外なのであまりふみこみませんが、おそらくいわゆるリベラル・コミュニタリアン論争などとも関連して微妙な問題をはらんでいるのではないかと思います。詳しい方にお話をうかがってみたいところです。

ともあれ、国民主権という考え方は国民のみに国政についての最高決定権を与えているのですから、その決定に対する責任もまた国民のみが負うことになります。ここにおいて国政とは、当該国家の国民が自ら選択しその責任を引き受けるべき、いわば「(当該国家の国民にとっての)自分自身の問題」なのです。そしてそれは、他国の問題についてはその国の国民自身が決定し責任を負うべき「他人の問題」であるという考え方と表裏をなすものです。

リベラルは日本政府に対してはうるさいのに外国の問題にはだんまりだ、という人がいます。私はそうした事実認識自体が必ずしも正しくないと思っていますが、仮にそんな傾向があるとすれば、その理由の一端はリベラルの多くが国民主権という考え方を支持していることに求められるのではないでしょうか*1

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年) 

加茂利男・大西仁・石田徹・伊藤恭彦『現代政治学』(有斐閣、第3版、2007年)

*1:もちろん、あくまでも「一端」であって、それに尽きるものではないでしょうが。

国民主権とリベラル(3)

ロールズの提唱した正義の二原理と、それに根拠を与えた「無知のヴェール」という概念装置について説明してきました

こうしたロールズの理論の背後にあるのは、「何人も、偶然与えられたいかなる有利な条件についてであれ、これを排他的に保持する正当な根拠を有しない」という考え方です。人種、性別、能力、家柄、容姿。たまたま生まれ持ったにすぎないこうした条件を利用して不当に利益を図ることが許されるべきではなく、だからこそこれらは最も不遇な立場にある人の利益を最大化するような形で利用されねばならない(格差原理)。このような考え方は、ロールズのみならず多くのリベラルが支持するところでもあります。

しかしこうした考え方に照らしたとき、国民主権という考え方や国民国家という枠組みははたしてリベラルの支持に値するものなのでしょうか。

ここで「国民主権」という場合の「主権」の意味について説明しておきましょう。一般に「主権」という語は3つの異なる意味で用いられます。

  1. 国家権力そのもの(国家の統治権
  2. 国家権力の最高独立性
  3. 国政についての最高決定権 

この3つです。「国民主権」という場合の「主権」は3つ目の意味であり、「国民主権」とは国政についての最高決定権が国民(のみ)にある、ということです。(続く)