条文で見る保証契約と分別の利益

はじめに

日本学生支援機構が分別の利益を有する保証人に対してその説明をしないまま全額の請求を行っていたというニュースに接しました。

奨学金、保証人の義務「半額」なのに…説明せず全額請求:朝日新聞デジタル

私は基本書に書いてあるような内容をそのまま記事にすることはあまり好まないのですが、条文から離れて「分別の利益」等の概念がトリビア的に流通するような事態もよろしくないと思うので、報道で用いられている語について条文を示しつつ簡単にだけ説明しておきます。

保証 

保証とは、主たる債務者がその債務を履行しないときに、その履行をする責任を負うことです。民法446条1項を参照してください。

  (保証人の責任等)

446条 保証人は、主たる債務者がその債務を履行しないときに、その履行をする責任を負う。

○2 (略)

○3 (略)

たとえば、Aが、Bに対して100万円を貸すときにその回収を確保するために、Cとの間で「もしBが100万円を返済しない場合にはCがAに対してその支払を行う」という契約をすることがあります。このときのAC間の契約が、保証契約です。

分別の利益

保証人には、分別の利益というものが認められることになっています。これは、保証人が複数いる場合それぞれの保証人は債権額を(保証人の)頭数で平等に分割した金額についてのみ負担すればよいというものです。民法456条、民法427条をご覧ください。

(数人の保証人がある場合)

456条 数人の保証人がある場合には、それらの保証人が各別の行為により債務を負担したときであっても、第四百二十七条の規定を適用する。

(分割債権及び分割債務)

427条 数人の債権者又は債務者がある場合において、別段の意思表示がないときは、各債権者又は各債務者は、それぞれ等しい割合で権利を有し、又は義務を負う。

たとえば、Aが、Bに対して100万円を貸すときにC、Dの二人とそれぞれ保証契約を結んでいたとします。このときC、Dは、債権額100万円を保証人の頭数2で割った50万円について、それぞれ負担すれば足りるということです。

連帯保証

連帯保証とは、保証人が主たる債務者と連帯して債務を負担する旨の特約がある保証です*1。この場合、保証人は主たる債務者と連帯して全額弁済義務を負うことを約しているため、分別の利益は当然認められません。

たとえば、Aが、Bに対して100万円を貸すときにC、Dの二人とそれぞれ連帯保証契約を結んでいたとします。このときC、Dは、いずれも分別の利益を有しないため100万円全額の負担を免れません。

おわりに

保証・連帯保証と分別の利益についてきわめて簡単に説明しました。

保証と連帯保証との最も大きな相違は、無資力者がいるときにあらわれます。すなわち無資力等のためにB・Cからの債権回収が見込めない場合、AはDが保証人であれば50万円の支払を求められるにとどまりますが、連帯保証人であれば100万円全額の支払を求められるということです。

なお本記事で説明したのは、冒頭で紹介したニュースを理解するために必要な最低限度の事項にとどまります。保証と連帯保証との相違は上述したところに尽きるものではありませんし、これらの語を正確に理解するためにはそれこそ基本書を丁寧に読み込む必要があり、ネット記事程度ですませることなど到底できません。ご注意ください。

*1:あくまでも保証の一種なのです。

人権とリベラル(2)

人権には大別して自由権参政権社会権の3つがあるが、これらすべてが最初から認められていたわけではない。国家による不当な介入を排除しさえすれば自由競争の中で社会は健全に発展するとの考えのもと、人権はまず自由権としてスタートを切ったと述べました

しかし産業革命の進展する19世紀の社会において、自由競争は極端な貧富の差をもたらし、貧しい人にとって自由とは飢える自由でしかなくなっていきます。これは例えば、低賃金での重労働を、労働者は契約自由の建前上拒めることになっているけれど、それは蓄えのない彼にとって餓死を意味する、というようなイメージです。

そこでこうした状況を克服し、貧しい人も本当の意味で自由に生きていけるようにするために、1919年のワイマール憲法において、はじめて社会権の規定が設けられました。これは自由を単なるお題目に終わらせないための手段を与えるものであり、今やそのようなものとしての社会権もまた自由の一内容をなすと考えられていることはすでに紹介したとおりです(国家による自由)。

こんにちのリベラルは以上のような歴史的経緯もふまえ、自由権参政権社会権のすべてを重視しています。このうち社会権をも重視するという点を「liberal自由主義的)」という語の素朴なイメージからは少々理解しにくいことが、リベラルに対する誤解の一因ではないかとわたしは考えています。

「リベラルは、自由を確保するための手段をも自由の一内容として重視する」

これを押さえておけば、少しはリベラルを理解しやすくなるかもしれません。

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年) 

人権とリベラル(1)

人権には大別して、自由権参政権社会権の3つがあります。

自由権とは、公権力による介入を排除して個人の意思決定や活動を保障する人権です。表現の自由職業選択の自由などがこれにあたります。公権力、つまり国家による介入を拒絶するものであることから、「国家からの自由」とも言われます。

参政権とは、国民が国政に参加する権利であり、選挙権や被選挙権などがこれにあたります。「国家への自由」とも言われます。

社会権とは、個人が人間らしい生活を営めるよう国家に対して積極的な配慮を求める権利です。生存権(最近ドラマでもやっていた「健康で文化的な最低限度の生活」、というアレです)や労働基本権などがこれにあたります。「国家による自由」とも言われます。

ただし、これらすべての人権が最初から認められていたわけではありません。「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある」とするフランス人権宣言第4条*1を見ても分かるように、人権はまず自由権としてスタートを切りました。これは当初、国家による不当な介入を排除しさえすれば、自律した個人による自由競争のうちに社会は発展し、社会全体の福祉も増進すると考えられていたためです。(続く) 

*1:http://ch-gender.jp/wp/?page_id=385

聞く力のきたえ方

はじめに

以下の2本の記事を立て続けに読みました。

ハーバード大学の有名教授が「話を聞く力の低下」を警鐘 | あの白熱教室のマイケル・サンデルが… | クーリエ・ジャポン

ブコメで寄せられる80%のコメントはバカによるものと思うべき - サブカル 語る。

これらの記事が共通して問題にしているのは、話を聞く、あるいは読みとる力です(以下では単に「聞く力」といいます)。おそらくブログ運営経験者の大半は、こうした力を欠くように見える人のあまりの多さに驚いたことがあるのではないかと思います。

もとよりこの種の問題は、話し手・聞き手の双方がスムーズな意思疎通を行えるよう努力するべきものではあります。しかし本記事は上記2記事を契機として作成を思い立ったものですので、ひとまずは聞き手の側に焦点をあて、そもそも聞く力とはなにか、これをどのようにしてきたえるべきか、といったことについて説明したいと思います。

聞く力とはなにか

聞く力とは、相手の主張を正しく理解する力のことです。そして「相手の主張を正しく理解する」とは、読みとるべきことを読みとり読みとれないことを読みとらないことです。

こう言うと簡単なようですが、できていない人は多いです。特に「読みとれないことを読みとらない」でつまずく人は本当に多い。部分否定を全否定と取り違えたり、全く言及していないことについて言及していると思い込んだり……。私自身の最近の経験で言えば、「Aに対して述べたことをBに対して述べたと誤解された」例や、酷いものでは「私自身はその記事についてブログでもブックマークコメントでも言及していないばかりか、はてなスターやいわゆる無言ブクマすら付けていないにもかかわらず、当該記事へのネットリンチに加わったと難詰された」例などがあります。

相手の主張を正しく理解するのは、意外と難しいことなのです。

聞く力のきたえ方 

基本

それでは、聞く力はどのようにしてきたえればよいのか。この点、聞く力の養成というのは、基本的には国語の学習を通じて行われるものです。したがって、小学校、中学校、高校に通っている人は、まじめに国語の勉強をするのが一番よいと思います。がんばってください。

それ以外の人には、相手の主張の要約をおすすめします。その際に重要なのは、自身の評価を交えず、何についてのどのような提言なのかを、できるだけ正確かつ端的にまとめること。そして可能ならば、相手の主張に対して自らの意見を開陳する前にその要約を相手に提示してください。そうすれば、相手は要約中自身の意図と異なる部分については指摘してくれるでしょう。こうしたやりとりを通じて聞く力は養われていきますし、当該の議論自体も正確な主張内容の把握を前提とした実り深いものとなることが期待できます。

聞く力を低下させる要素の排除

聞く力は常に一定であるわけではなく、さまざまな要素の影響を受けます。聞く力を低下させる要素については、できるだけ排除するよう意識するべきです。ここでは特に重大な影響を及ぼしうるものとして次の2点を挙げておきます。

1つは敵対的な立位置。人間、自身の立場と真っ向から対立するような主張を唱えられれば、ときには必要以上に反発してしまうこともあるでしょう。しかし相手の主張を反駁の対象としてのみ捉えてしまえば、アラ探しばかりに終始して相手の主張を理解しようとする姿勢を欠くことにもなりかねません。相手の主張を理解しようとする姿勢がなければ、聞く力すなわち相手の主張を正確に理解する力が低下するのは当然です。何事も鵜呑みにしない批判的態度は重要ですが、それはまず相手の主張を正確に理解してからのことです。

もう1つは専門知識の欠如。専門分野を持たない人が抱きがちな幻想として、「頭のよい人はどんな問題に対しても鋭い洞察を見せる」というものがありますが、そのようなことは全くありません。どれだけ賢い人であっても、話題が専門性を帯びたときにその分野の知識を持っていなければ、鋭い洞察どころか主張を理解することさえできないものです。話題が専門性を帯びるとき、その分野の知識の有無は聞く力に大きく影響するのです*1。 

こうした要素を完全にではないにせよ排除する実践的な方法としては、「相手の主張は完全に正しく、理解できない場合は自分の能力が不足している」という前提で主張に接することをおすすめします。特に専門性を帯びる話題において相手がその分野の専門家である場合には、相手の主張をなんとか整合的に解釈しようと試みる過程で、単に書籍などを通じて知識を得るよりも立体的な「生きた」理解に到達できることも多く、非常に効果的です。

おわりに 

聞く力とそのきたえ方についていろいろお話ししてきましたが、その多くは実は相手を尊重していれば改めて意識するまでもなく自然に行っているはずのことです。

相手の主張に対して敬意を持ち本当に知りたいと思うならば、相手の主張内容についての自分なりの理解を示して確認もするでしょう。理解が難しい場合にも、簡単に投げ出すのではなく自分自身の見落としなどの可能性を検討するでしょう。

結局のところ聞く力の要諦は、相手を尊重するというきわめてシンプルなことなのかもしれません。

なにかの参考になれば幸いです。

*1:なお、ときおりいろいろな問題についてそれらしい(素人目には鋭く見える)ことを言ってまわる人がいますが、それらの多くは単なる半可通の与太です(少なくとも私の専門分野に関してはそうです)。彼らは主張の正確な理解からは最も遠いところにいる人びとなので注意してください。

憲法の役割とリベラル(4)

「踏絵法」という架空の法律を題材に、「憲法によって国家権力を制限し国民の権利を保障する」ということについて考えてきました。最後に1点、見落とされがちなことを指摘しておきましょう。いわゆる私人間効力の問題です。

これまでくり返し述べてきたように憲法は国家権力を制限するものであるわけですが、そうである以上、これは市民(私人)間の問題に直ちには妥当しません。つまり市民社会の中で生じる問題、市民同士の問題については、憲法上の人権規定を直接適用できるとは必ずしも言えない、ということです。 

もちろん、市民間の問題は憲法とはまったく無関係だというわけでもなく、この点についてはさまざまな議論があります。通説的な見解とされる間接適用説は、規定の趣旨や文言等に照らして直接的な私法的効力を有すると解されるいくつかのもの*1を除く憲法上の人権について、その趣旨を私法の一般条項を解釈する際に取り込むことによって、私人間の行為を規律しようと試みるものです。こうした議論の詳細は、いずれ改めて論じることもあるかもしれません。

ともあれ、「憲法は国家権力を制限するものであり、市民間の問題に持ち出す場合には注意が必要だ」ということは押さえておいてください。

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年) 

*1:たとえば、「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」と定める憲法15条4項はその一例です。

id記載の削除等

増田での個人攻撃の度が過ぎる - U.G.R.R.にて言及したはてな匿名ダイアリーの記事「まともなフェミニストはこれをどう思うの」が消えたことに伴い、上記拙記事中のid記載を削除した(おって本記事へのリンクを追加する)。

また、上記拙記事の注3に「前掲注1参照。」とあったのは「前掲注2参照。」の誤りであるため、そのように訂正した。

憲法の役割とリベラル(3)

憲法によって国家権力を制限し国民の権利を保障する」ということの理解を助けるため、「踏絵法」という架空の法律の成立を仮定し、その内容について説明してきました

さて踏絵法施行下において踏絵検査が実施され、検査を拒否したAが起訴されました。すでに見たとおり踏絵法は検査を拒否した者に罰金を科すると規定しているのですから、普通に考えればAには罰金が科せられることとなりそうです。しかしここで裁判所は違憲審査権*1を行使し、「踏絵検査を拒否した者に罰金を科する旨を定める踏絵法の規定は、思想・良心の自由を定めた憲法19条に違反し無効である」と判断しました。この結果、Aには無罪判決が下されることとなったのです。

もちろんこれは一例にすぎませんが、「憲法によって国家権力を制限し国民の権利を保障する」とは、こういうことです。国民国家を前提として社会生活を営む以上*2国民は国家の定める一定の規範に服せざるを得ず、憲法は国家機関たる国会に規範定立の権限を与えています*3。したがって本来、国会でしかるべき手続を経て成立した法律は、 国民をしばる力を持ちます。しかし国民の権利を保障するため、そのような法律によってもしばることのできないラインや、そのラインを守らせるための仕組みをも、憲法は同時に用意しているのです。(続く)

*1:憲法76条1項、同条3項、81条、98条1項、99条。特に「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」とする81条に着目してください。

*2:この点についてはいずれ詳論することになるでしょう。

*3:憲法41条。