表現規制とリベラル
はじめに
表現の自由ははてなでも度々ホットエントリーにあがる人気のテーマであり、少し検索するだけでも実に多くの記事が見つかります。しかし、では表現の自由をめぐる問題がさまざまな立場から論じられているかというと、必ずしもそうは言えません。実はわが国において表現規制の必要性を正面から認める勢力は、きわめて少ないからです。ツイッターなどで「表現の自由原理主義」とでも呼ぶべき極論をふりかざしている方々については論じるまでもないでしょう。そして誤解されがちですが、俗にリベラルと目されている方々も、たとえば差別的な表現に対して懸念は示しても、これを規制するというところまでいくと概して慎重な態度をとっているように見受けられます。これはいったいなぜなのでしょうか。まずは、リベラルの方々のこうした態度について考えたいと思います。
リベラルが重視する3種の自由
リベラルは、「国家からの自由」としての自由権、「国家への自由」としての参政権、「国家による自由」としての社会権のすべてを重視しています。ここで社会権すなわち「国家による自由」をも重視するとは、単なるお題目にとどまらない実質的な自由の確保を志向するということにほかなりません。たとえば財産もなく病のために満足に働くこともできないような人を、「自由」の美名のもとに社会に投げ入れてなんらの手当てもしないとすれば、その人は飢えや病によって死ぬことしかできないでしょう。そんな「自由」には何の意味もありません。そこで、社会権という形で国家から必要な補助を受けられるようにすることで、すべての人が本当の意味で自由に生きられる社会を目指す。こうした「自由を確保するための手段をも自由の一内容として重視する」側面がリベラルにはあるのです。これは、以前の記事で説明しました。
差別反対は自由の確保
場面は少々異なりますが、差別に反対するリベラルの論理も、基本的には上述のような発想に基づく部分があるように思われます。たとえば、「○○人は嘘つきだ」でも「○○人は反日だ」でも構いませんが、とにかくその種の偏見が社会に蔓延していたとしましょう。その社会における○○人の彼・彼女の発言は、(○○人であるという自らにはどうしようもない事情によって)「どうせ嘘だろう」 と話半分で聞き流され、あるいは「どんな魂胆でそのように言うのか」と過剰に疑われる(選択的懐疑主義! )に違いありません。このような状況下において、元凶となる偏見を放置して「あらゆる表現の自由を擁護する」などと嘯いてみても、○○人の彼・彼女の表現の自由が本当の意味で確保されているとは言えない、という考え方です(なお、「○○人は嘘つき」「○○人は反日」などの言辞は○○人である彼・彼女の尊厳を傷つけるものであり、そのこと自体も無論きわめて重大な問題ですが、今回は措いておきます)。
中核はやはり自由権
しかしその沿革からもうかがわれることですが*1、人権の内容をなす上記3種の自由のうち、その中核となるのがやはり自由権すなわち「国家からの自由」であることは否定しがたいところです。たとえば「立憲主義」について「憲法によって国家権力を制限し人権を保障しようとする考え方」などと説明されることがありますが、かかる説明中の「人権」が自由権を念頭に置いていることは明らかでしょう*2。そして自由権を中核に据えて考える以上、たとえ差別的な表現の横行する現状に対して懸念を抱いていても、そこから歩を進めて表現規制を支持することには慎重にならざるを得ません。表現規制とはまさに国家権力が強制力をもって表現の自由という自由権を制約するものだからです(なお、以上の記述から分かるように、表現の自由は一次的には国家との関係で問題となるものです。念のため)。
おわりに(おわらない)
本記事では、たとえば差別的な表現に接したときのリベラルの葛藤について、ひとまずその大枠を示しました。もちろん、彼らも表現の自由(をはじめとする自由権)の保障を絶対的なものと考えているわけではなく、一定の制約があることを認めてはいます。しかしながら、その自由権重視の態度ゆえに、彼らの認める制約の範囲はきわめて狭いものとなっているように思われます。次回はこの点について、もう少し詳しく見ていく予定です。
具体的に何が行われたかは重要という話など
以下の記事とそれに対する反応に接しました。
「人権派」な人の性加害案件を見て、父の精神的虐待を思い出した話 - 宇野ゆうかの備忘録
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本題に入る前に、とても大事なことを2点述べておかないといけません。
1点目。本記事では宇野さんの父親および広河隆一の言行について言及します。その際の記述は、いちおう宇野さんおよび広河に被害を受けたと訴える女性たちの言い分を前提として行いますが、これは「仮にそうだったとして」という程度の趣旨で、それらの言い分が正しいとするものではありません。
2点目。本記事は宇野さんの上記記事を批判するものではまったくありません。宇野さんが父親の言動等によって本当に苦しい思いをしたことは確かであり、そうである以上そのことについて私などが口を挟むべきでないと思うからです。また、私はいわゆる「#metoo」運動に一定の理解を示すものですが、こうした運動の要諦は、事実が那辺にあるかを探求することにではなく、当事者があげる切実な憤りないし苦悩の声に共感し連帯の意思を示すことで、彼ら・彼女らをエンパワーすることにこそあると思うからでもあります。
さて、以上を前提として本題に入ります。といっても、これから述べるのはいずれも過去に扱ったテーマばかりなので、簡単にコメントを加えたうえで適宜該当の過去記事を紹介するという形をとることにします。
まず気になったのは、宇野さんの父親を広河隆一と並ぶような悪人であるかのように扱う反応が散見されたことです*1。この点についての批判がまったく見当たらなかったことが、本記事作成の最大の動機です。
たしかに、こうして宇野さんが辛い思いをされているのですから、宇野さんの父親も完璧な人間ではなかったのかもしれません。よりよい関係性の築き方が、探せばきっとあったのでしょう。
しかし宇野さんの父親は、宇野さんの記事を前提としてさえ、手をあげることはおろか声を荒らげることすらなく、「不機嫌さによる無言の威圧や、声量は大きくはないが低く鋭い声の調子という、微妙な感情の表出」を行ったというにとどまるようです(もちろん性的虐待も行っていません)。
くり返しますが、これによって宇野さんが辛い思いをされたということを否定するつもりは毛頭ありません。しかし人間、疲れていたり意に沿わないことがあったりすれば、多少機嫌が悪くなったり口数が少なくなったりするのは自然なことです。何があろうと穏やかで公正なふるまいを心がけよ、というのは要求としてかなり高度なものであり、「手をあげない」「大声を出さない」というだけでも、親としてはそれなりの水準に達しているという見方も可能でしょう。少なくとも、第三者が、宇野さんの父親を、複数の女性に対して性暴力をふるったのではないかとされている広河と同列に論じて悪人扱いするのは、あまりにも宇野さんの父親の人格権を軽視した乱暴な議論であるというべきです。
ネット上では、こうした個別具体的な事例に着目しない乱暴な議論が往々にしてなされます。 「差別」だとか「反差別」だとかいう抽象的なコトバに逃げ込んで実際に起きたことから目をそらしていると大切なことを見落とす、というテーマについては以下の記事で扱いましたので、参照してください。
なお、宇野さんの父親にあるいは見られるのかもしれないある種の甘えの背景には、互いに助けあいあるいは迷惑をかけあう、家族という共同体がかつてのように強固に存在しているといった幻想があるのかもしれません(もちろんそのことは何の免罪符にもなりませんが)。このテーマについては以下の記事で扱いましたので、参照してください。
もう一つ気になったのは、これもネット上ではよく見かける「ダブル・スタンダード」批判と思しき反応です。つまり、たとえば「人権派を名のりながら人権を抑圧している」という類のもので、これに対して私が発するべきは、突き詰めれば次の一言だと思います。
「それで、あなたはどう考えるのですか」
問題はきわめてシンプルです。仮に人権が抑圧されている状況があるのならば、あなたがその状況を是とするか、非とするか。それだけです。「人権派」なるものがどうであるかは、まったく関係がありません。殊更に「ダブル・スタンダード」を難ずる方というのは、標的を攻撃することにばかり熱心で、自らの立ち位置を明らかにするケースはきわめて稀です。それは自ら責任を引き受けることを回避する、姑息な態度だと思います。
このテーマについてはいくつか記事を書いた覚えがあり、前掲の「『ポリコレ棒』について」もその一つですが、(おそらく)最初に書いたものとしてひとまず以下の記事を挙げておきますので参照してください。
*1:念のために強調しておきますが、私が気になったのはあくまでも「反応」の方であって、宇野さんの記事自体ではありません。
公共の福祉とリベラル(4)
「公共の福祉」を人権に内在するものだとする考え方を説明し、これがリベラルも支持する現在の通説的な立場であると述べました。
最後にケーススタディーとして、自民党の憲法改正草案*1を見てみましょう。現行憲法中「公共の福祉」という文言が用いられている箇所についてはすでに紹介しましたが、草案中のそれらに対応する部分を引用します。
(国民の責務)
12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
(人としての尊重等)
13条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
(居住、移転及び職業選択等の自由等)
22条 何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
○2 (略)
(財産権)
29条 (略)
○2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。
○3 (略)
詳細な比較検討は各自で行っていただくとして、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変えられている点がまず目につくと思います。そしてここまで読み進めて来られたみなさんは、これがたとえば美濃部達吉の説いた「公共の安寧秩序」にとてもよく似ていることにもすぐ気づくでしょう。そう、これはかつて美濃部などがとった 「公共の福祉」を人権の外にあるものだとする考え方への回帰を目指すものであると考えられます。それゆえ、「公共の福祉」を人権に内在するものであると考えるリベラルはこれを批判するのです。
参考文献
芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年)
*1:http://constitution.jimin.jp/draft/
公共の福祉とリベラル(3)
「公共の福祉」を人権に内在するものと捉えるかどうか、という視点を提示したうえで、まずは人権の外にあるものだとする考え方について紹介しました。
しかし、今なおこうした考え方を支持するという人はあまりいません。それは、こうした考え方が「公共の福祉」を「公益」や「公共の安寧秩序」といった抽象的な概念として捉えるものであるため、恣意的な人権制限につながりかねないのではないか、という懸念によるものです。
かわってこんにちでは、「公共の福祉」をすべての人権に内在するものだとする考え方が通説的な地位を占めています。細かい部分ではバリエーションがあるのですが、たとえば宮沢俊義は、「公共の福祉」とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理でありすべての人権に論理必然的に内在しているとしたうえで、権利の性質によって制約の程度が異なる(自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉)、と解しています*1。
リベラルも、「公共の福祉」を人権に内在する人権相互間の調整原理として理解しています。(続く)
自由主義が不自由を招く?
以下の記事とそれに対する反応を読みました。
どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠
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この手の話題でいつもおもしろいな、と思うのは次のようなことです。すなわち、私たちの社会はまだまだ至らぬ点もあり、ときには「後退」することさえあるけれども、全体としてみれば、個人主義・自由主義の進展によってムラ社会的な抑圧からは解放されてきているはずです。そうであるにもかかわらず、むしろ(昔はそうでなかったのに)今は不自由である、抑圧されている、とする声は決して少なくないし、実際そうした面もないわけではないように見える。これはなぜなのか、ということです。
もちろん理由はさまざまにあるのでしょうが、私は、個人主義・自由主義こそがこんにちの不自由や抑圧を生み出している面もあるのではないかな、という気が少ししています。
たとえば、かつての農村のような地域共同体においては、かなりの程度固定されたメンバーと長期間にわたって付き合っていくことが不可欠です。そのメンバーの中には、タバコを吸う人や痰・唾を吐く人、愛想の悪い人などもいるかもしれませんが、気に食わないからといってとりかえられない以上、甘受するよりない。そしてそんなクセの強い人であっても、実際に顔を合わせて日常的に交流していれば、多少のことは気にならなくなるものです。
また、こうした共同体で付き合っていくとはつまり、水路や農道を共同して管理するといった助け合いの関係を構築し維持するということであり、そこでは当然迷惑をかけることもあればかけられることもあります。そうした関係性の中では、たとえタバコの煙を多少迷惑に感じたとしても、あまり重く捉えず相対化して受け流しやすいようにも思われるところです。
ところが時代の流れとともにこうした共同体は解体され、かわって個人主義や自由主義が幅を利かせるようになりました。
そこでは気に入らない人との関係はいともたやすく断ち切られ、自分にとって居心地のよいナカマだけのコミュニティが形成されていきます。それは「いやなものに無理にかかわる必要はない」という論理で正当化され、実際そのような面もあるとは思いますが、一方で気に入らない人とは人間として接することなく切断処理を行ってしまうという面もあることは否定しがたいところでしょう。
また助け合いが不可欠でなくなり「お互いさま」 の関係がなくなったことは、自由主義の名の下にさまざまな「○○の自由(○○する権利)」を唱える風潮と結びつき、人びとはわずかな不自由の甘受、つまり「迷惑」を被ることさえ拒否するようになりました。最近の出来事では、店員の些細なふるまいに激昂して難詰するモンスタークレーマーよろしく、不規則発言で質問の機会が奪われたと大騒ぎする弁護士の登場なども、あるいはその一例と言えるかもしれません。
以上を要するに、ムラ社会的なるものが解体され個人主義・自由主義が幅を利かすようになった結果、異質な人間との地に足のついた交流の機会が減少し、そのような者への寛容さが失われていったという側面があるのではないか、ということです。
もとより、こうした変化は時代の流れによるものであり避けえなかったと言えましょうし、すでに農村的な地域共同体が失われている以上、再びこうした社会を目指すことも難しいでしょう。また冒頭掲記の記事への反応で多く指摘されているところとも関連しますが、かかる共同体においては差別的関係性が所与として組み込まれていることに基づく抑圧も多く存したのであり、そのような社会の方が望ましかったともまったく思いません*1。ただ、自由の敵と目されていたムラ社会的なるものにも自由を確保するような側面があり、逆に個人主義・自由主義にも抑圧を招く側面があるのだとすれば少しおもしろく感ずる、というだけの雑記です。
公共の福祉とリベラル(2)
人権も決して無制約というわけではない。そして、その制約を論じる際に出てくるのが「公共の福祉」であるということを述べました。
「公共の福祉」の意味をめぐってはこれまでに多くの議論がなされていますが、本記事ではその詳細に立ち入らずポイントのみを指摘します。それは、「公共の福祉」を人権に内在するものと考えるかどうか、ということです。
ある考え方は、「公共の福祉」を人権の外にあってそれを制約することのできる一般原理であるとします。たとえば、美濃部達吉は『新憲法逐条解説』において以下のように述べました*1。
基本的人権は之を濫用してはならぬ。自由には責任心・自制心が必ず之に伴はねばならぬもので、自由であるからと言つて自分の欲する侭に如何なる事でも為し得るといふのではなく、他人の同様の権利及び自由を尊重しなければならぬことは勿論、公共の安寧秩序を紊乱してはならぬ。国民の基本的権利は唯此等の制限の下においてのみ認めらるるのである。
これは美濃部が憲法12条について解説した文章の一部ですが、ここでは「公共の安寧秩序を紊乱してはならぬ」という部分に注目してください。「公共の福祉」を人権の外にあるものだとする考え方は、このように「公共の福祉」を「公益」や「公共の安寧秩序」として理解するものなのです。(続く)
*1:文中の旧字については引用者において適宜改めました。
公共の福祉とリベラル(1)
憲法は、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」として保障しています。このことを規定した憲法11条を引用しておきますので、確認してください。
11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
もっとも、基本的人権も一切の制約を受けないというわけではありません。人間が社会の中で生きるものである以上、他者の人権との関係等によって制約を受けることもあります。そうした制約を論じる際に出てくるのが、「公共の福祉」ということばです。
憲法の条文上、「公共の福祉」という文言が用いられるのは以下の4か所です。これらも引用しておきますので確認してください。
12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
○2 (略)
29条 (略)
○2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3 (略)
(続く)