左折の改憲と現実主義

はじめに

少し前に、左折の改憲論(新9条論)というものに関する記事をいくつか読んだのだった。

左折の改憲論とは要するに、こういうことらしい。現行の憲法9条からすれば、自衛隊違憲のはずである。(違憲のはずの)自衛隊の存在を容認しつつ9条を奉ずるという欺瞞性が、かえって立憲主義を危うくしている。自衛隊の存在を認めたうえで集団的自衛権の行使を禁ずるという現実に沿った条文に9条を改正することこそが、立憲主義を守ることになる、と。

左折の改憲論に対しては、すでに多くの批判がなされており、やや時期を逸している観もあるが、私も気になった点について簡単に記しておくことにする*1

自衛隊容認という「現実」?

左折の改憲論は、「自衛隊の存在が国民に認められている現実を憲法に反映させよ」という。このようななし崩しの現状追認が許されるべきでないことは、脚注1で紹介した記事が明快に指摘しているところである。しかしそもそもの問題として、「自衛隊の存在が国民に認められている現実」なるものを無留保で前提とする態度は、控えめに言っても、純朴にすぎるのではないだろうか。

なるほど、確かに現時点において、自衛隊の存在は多くの国民の支持を得ているのかもしれない*2。しかし、このような支持がいかなる意味を有するものであるかということについては、「現実」という無邪気な一語で片づけず、しっかりと考える必要がある。

「現実」主義の陥穽

かつて丸山眞男は、「『現実』主義の陥穽」(思想、1956年3月号、岩波書店。なお、テキストは『丸山眞男セレクション』に収録のものを参照した)において、わが国で「現実」が論じられるときの「現実」の構造について、以下のように分析し、その問題点を指摘した。

すなわち、第一に、「現実」が所与のものとして受けとめられがちであること。本来現実は、与えられた(=所与の)ものであると同時に、われわれの営みによって日々造られていくものでもある。ところが、わが国で「現実」が論じられるとき、後者の契機は無視され、「現実」は既成事実と等置される。そして、既成事実としての「現実」は、「現実だから仕方がない」という諦観を導くものとなる。

第二に、「現実」が一面的に捉えられがちであること。本来現実は、きわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によって、立体的に構成されるものである。ところが、わが国で「現実」 が論じられるとき、多面的な現実のうちの一つの側面のみが強調される。そしてそれに沿わないものには、一様に「非現実的」との烙印が押され、排除の対象となる。

そして、これらの帰結として第三に、わが国で「現実」が論じられるとき、それはときの支配権力が選択する方向と、大きく重なることとなる。ここに、われわれの間に根強く巣食う事大主義と権威主義が、はしなくも露呈するのである。

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

「現実」への盲従が招くもの

自衛隊の存在が国民に認められている現実」

さて、以上のような丸山の指摘をふまえて、「自衛隊の存在が国民に認められている現実」 について考えてみたい。

このような「現実」は、ある日突然降って湧いたものではない。マッカーサーによる警察予備隊の創設指令を端緒に、以降、その違憲性を問う訴訟*3などもくぐり抜け、警察予備隊から保安隊、そして自衛隊へと「発展」させながら積み重ねられてきた政治的所為の結果として、築かれたものである。そうである以上、その「現実」が、決してスタティックなものではなく、今このときにも、われわれの営みによって新たな形に造りあげられていく過程にあることは、自明である。また、その「現実」が、あくまでも一面的なものであることにも留意せねばならない。

自衛隊の存在が国民に認められている現実」を憲法に反映させるとはすなわち、その「現実」に大きな意味を与え、それ以外の「現実」よりも重視するということに他ならない。そしてそれは、今後さまざまに形成しうる「現実」のうちの、ある可能性を開き、あるいは閉ざすということでもある。それでは、どのような可能性が開かれ、あるいは閉ざされるのか。この点については、「新9条論」は危険な悪手 - 読む・考える・書くの記述が示唆に富む。とりわけ、同記事中で斎藤美奈子の指摘として紹介されている点は重要である。すなわち、左折の改憲によって、少なくとも、日本国憲法が改正されたことはないという「現実」は、消滅する。

左折の改憲のあと

日本国憲法が改正されたことはないという「現実」の重しが取り払われたとき、わが国がいかなる進路をとるのか。この点について、私は少なくとも、「左折の改憲論者が思い描いているような方向に進むことはない」ということだけは断言できる。

先に見たとおり、わが国の世論は、「現実」を、自ら造りあげるものとしてではなく、与えられた一面的な既成事実としてのみ受けとる。そして、その「現実」を与え(う)るのは、基本的には支配権力に他ならないため、わが国の世論がいう「現実」は、ときの支配権力の選択と大きく重なるのであった。

よく知られているように、憲法は、国家権力を制限するための規範である。したがって、国民が、「現実」を自ら造りあげるものとして捉える契機を欠く結果、ときの支配権力の選択を「現実」として無批判に受けいれるような状況下においては、憲法改正を容易なものとすることは、大きな危険をはらむ。自らの権力の制約にかかる決定権を、(国民がときの支配権力の選択を「現実」として無批判に受けいれることによって)ときの支配権力自身が握ることとなるからである。

日本国憲法が改正されたことはないという「現実」は、事実上憲法の改正を困難にするという意味において、ときの支配権力が与え(う)る「現実」に対する枷として機能してきた。その枷が外されたとき、上記のような理路によって自らの権力の制約にかかる決定権を有する支配権力が、自らの権力に対する制約を取り除き、より自由に(横暴に)ふるまうようになるということは、あまりにも見やすい道理であろう。

楽観的すぎる左折の改憲論者

あるいは左折の改憲論者は、ときの支配権力が与えようとする「現実」を拒むだけの力が、国民にあると考えているのかもしれない。たとえば、左折の改憲を主張する想田和弘が提唱する「創憲」という概念には、そのような期待をうかがわせるところがある*4。しかし、そうであるならばあまりにも見込みが甘いと言わざるを得ない。

今夏のいわゆる安保法制についての審議で、安倍をはじめとする与党の者らが得意げにくり返していた文句がある。わが国の「現実」は、ときの支配権力が既成事実をつくりあげ、これを国民が後追い的に認めることによって造られているのだということを痛感させられる文句であった。左折の改憲論者の期待に対する反駁としては、これを引用すれば必要にして十分だろう*5

今まで、さまざまな国の判断あるいは議会の判断がございました。そのたびごとに、残念ながら国民の支持が十分でなかったものもございます。典型例が、六〇年の安保改定もそうではなかったかと思いますし、またPKO法案が成立をしたときもそうではなかったかと思います。しかし、今ではそれぞれが十分に国民的な理解を得ている。法案が実際に実施される中において、これはやはり国民のためのものなんだなという理解が広がっていくという側面もあるわけでございます。

おわりに

以上、左折の改憲論について、気になった点を記した。

左折の改憲論に限らずさまざまな議論において、「現実」を一面的かつ絶対的なものと見なしてこれに迎合する傾向は、散見されるように思う。本記事が、そうした傾向は果たして好ましいものであるのかということを、改めて考えるきっかけとなれば幸いである。

*1:なお、左折の改憲論に対する最も根本的な批判は、「左折の改憲」論について - Arisanのノートにおいて的確になされている。同記事に対する説得的な反論がない限り、この問題についての結論は出たとしてよいのではないかと思う。それでも本記事を公開することとしたのは、これから述べる私の「気になった点」が、左折の改憲論のみにとどまらない問題をはらんでいるように思われるためである。

*2:内閣府が今年3月に発表した「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」では、自衛隊に好印象を持つ回答が92.2パーセントに達したという(http://www.sankei.com/politics/news/150307/plt1503070014-n1.html)。

*3:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/366/057366_hanrei.pdf

*4:http://www.magazine9.jp/article/soda/23445/

*5:平成27年6月26日、我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会において、民主党岡田克也が行った、「法案の採決は、十分に国民の理解を得たうえで行うべきではないか」という趣旨の質問に対する安倍晋三の発言。なお、引用者において太字強調を施した部分がある。

死刑事件と上訴

私は、以前の記事において、さしあたりわが国が目指すべきは、死刑事件における手続保障の充実である旨を述べた*1。今回は手続保障との関連で、死刑事件においては上級審での審理を必要的なものとするべきではないか、ということについて述べたい。

周知のとおり、わが国の刑事裁判では、未確定の判決に不服がある場合、上級裁判所に対し、控訴や上告を申し立てて、判決の取消しや変更を求めることができる*2控訴・上告の申立権は、検察官・被告人のほか、被告人の法定代理人または保佐人、原審における代理人または弁護人にも認められる*3。もっとも、被告人の法定代理人または保佐人、原審における代理人または弁護人については、被告人の明示の意思に反して申立てを行うことはできないとされる*4。そして、控訴・上告の申立権は、上訴期間の徒過や、上訴の取下げ等によって消滅することが規定されている*5。このような制度は、当事者の意思を尊重しつつ、慎重な審理を行いうる体制を確保することによって実体的真実の解明と刑罰法規の適正かつ迅速な適用を実現することを目的として構築されたものである*6

刑事裁判においても、当事者の意思が尊重されるべきことは勿論である。ただ、特に重大事件において、判決言渡直後の被告人は、正常な精神状態にないことも多い。捜査段階からの身体拘束や厳しい取調べ。また、公判廷においては、検察官は言うに及ばず、証人として出廷した被害者やその関係者、さらには裁判官からさえ、ときとして厳しい言葉を投げかけられ、その様子が衆目にさらされる。こうした手続を経て、自らの環境を大きく変えるような重い判決を受けた被告人が、混乱し、過度な自責の念に捉われ、あるいは自棄的になってしまったとしても、驚くにはあたるまい。また、被告人の中には、知的障害が疑われる者も少なくない。受刑者の約22パーセントが知能指数70未満であり、測定不能の4パーセントを含めると、4人に1人は知的障害の疑いがあるというセンセーショナルな情報が、社会的にも大きな反響を呼んだことは、記憶に新しい*7。こうした被告人の状態もふまえれば、上訴の取下げを行うか否かという重大な判断については、弁護人等の十分な援助の下に、慎重になされることが望ましい。

ところが現実には、被告人は必ずしも 弁護人等の十分な援助を受けられる状況にあるわけではない。弁護人の選任は審級ごとにすることとされており*8、移審の効力は上訴の申立てによって生じる。したがって、上訴の申立てがなされてから上訴審において弁護人が選任されるまで、被告人には弁護人がいないこととなるのである。安田好弘「必要的上訴の確立を」*9より引用する。

ところで、控訴を申し立てると、その瞬間に手続的には、一審がそこで終わるんです。判決の時に一審が終わるんじゃなくて、控訴申し立てによって一審が終了するんです。一審が終わるということは、一審でついていた弁護人が弁護人としての資格がなくなるということでもあるのです。ですから、その時点から、控訴審で新しい弁護人が選任されるまでの間は、一般に一、二カ月を要しますが、弁護人のいない状態が続くわけです。

現状では、こうした弁護人のいない状況下で被告人自身によって上訴の取下げがなされる可能性も存するのであって、当事者の利益を保護するという観点からはきわめて問題があるものと言わねばならない。また、弁護人が選任されている場合でも、それをもって十分だとすることはできない。上記のとおり、被告人は正常な精神状態にない場合も多く、弁護人と十分なコミュニケーションをとれないまま、上訴を取り下げてしまうというケースもあるからである*10。そして、ひとたび上訴を取り下げてしまえば、これによって上訴権は消滅し、判決は確定する。上訴取下げが無効とされうるのは、その内容に不服があるのに、判決の衝撃や審理の重圧に伴う精神的重圧によって拘禁反応等の精神障害を生じ、その影響下において、苦痛から逃れることを目的として取下げを行ったというような、きわめて限定的な場合のみである*11

このような問題は、特に死刑事件において鮮明にあらわれる。上述のような検察官等からの非難が、死刑事件のような重大な事件において、よりその度合いを増すことは当然であるし、死刑という最高刑が言い渡されることによって被告人が受ける衝撃が、他の刑の場合よりも格段に大きいであろうこともまた論を俟たない。また、死刑事件の場合には、上訴取下げ等を行うにあたって、特別の問題も生ずる。すなわち、他の刑が言い渡された場合、早期に判決を確定させて刑に服することは、自らの犯した罪に真摯に向き合い、更生して社会復帰を目指すうえで 、被告人自身にとっての利益ともなりうる。しかし死刑判決が言い渡された場合、わが国における最高刑を言い渡すこの判決を確定させることは、原則として自らの生命に対する権利という最も重要な権利を失う(もちろん更生や社会復帰もあり得ない)との結果を確定させることを意味する。その意味で、死刑判決に対する上訴取下げ等が、被告人自身にとっての利益ともなりうるなどというケースは、ほとんど考えられないのである。

ここまで縷々主張してきたものの、被告人が正常な精神状態にない場合も多い、ということについて、いまひとつ実感できないという向きもあろうかと思う。多少精神的に不安定であっても、自ら上訴の取下げ等を選択した以上、それによって判決が確定することもやむを得ないのではないか、と。そこで最後に、一つの事実を紹介したい。1993年以降の死刑確定囚(被執行者、獄死者を含む)の人数と、上訴を行わず、または上訴を取り下げたために死刑判決が確定した者の人数である*12。 

1993年3月26日以降の死刑確定囚は、257人。そのうち、上訴を行わず、または上訴を取り下げたために死刑判決が確定した者は41人*13である。

つまり、死刑確定囚の約16パーセントは、上訴を行わず、または上訴を取り下げたことによって、死刑判決が確定したものだ、ということになる。上記のとおり、死刑判決に対する上訴取下げ等が、被告人自身にとっての利益となることなどほとんど考えられないことをふまえれば、異常な割合というほかない。死刑判決を受けた被告人(の少なからぬ部分)がいかに不安定で混乱した精神状態にあるかということは、こうした事実からも明らかであろう。

以上のとおり、殊に死刑事件において、上訴についての判断を十分な援助もないまま全面的に被告人に委ねてしまうことはきわめて危険であるところ、現状では残念ながら被告人の上訴についての判断を十分に援助する体制が整っているとは言えない。また、刑事裁判は、実体的真実の解明や刑罰法令の適正な実現等をも目的とするものであるところ、被告人が自棄的になって多くを語らぬまま上訴取下げ等に及べば実体的真実の解明という目的が損なわれるおそれがあるし、過度に自責の念に捉われ情状事実の主張を潔しとせず黙したまま上訴取下げ等に及べば(他の事件の刑罰との均衡を欠くという意味で)刑罰法令の適正な実現という目的が損なわれるおそれもある。刑事裁判が上記のような公益的な目的を有するものであることに照らせば、少なくとも死刑事件において、上級審での審理を必要的なものとすることが検討されても良いのではないだろうか。

*1:そして、手続保障の充実に伴う費用の増大によって、死刑制度も廃止の方向へ向かうのではないかとの見込みを示した。

*2:刑事訴訟法372条、同法405条。

*3:刑事訴訟法351条1項、同法353条、同法355条、同法414条。

*4:刑事訴訟法356条、同法414条。

*5:刑事訴訟法359条、同法360条、同法373条、同法414条。

*6:刑事訴訟法1条参照。

*7:http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/summary/2012-12/05.htmlなど参照。

*8:刑事訴訟法32条2項。

*9:年報・死刑廃止編集委員会編『死刑囚監房から 年報・死刑廃止2015』(インパクト出版会、2015年)126頁以下に収録。2015年7月8日、参議院議員会館で行われた「上川陽子法相による死刑執行に抗議する集会」での発言。

*10:したがって、医療やケアの専門技能を有する者の協力を得られる体制の構築等が図られるべきであろう。

*11:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/166/050166_hanrei.pdf参照。なお、死刑判決に対する上訴取下げのケース。

*12:フォーラム90作成の「93年3.26以降の死刑確定囚」年報・死刑廃止編集委員会編『死刑囚監房から 年報・死刑廃止2015』(インパクト出版会、2015年)223頁以下によった。

*13:なお、この他に控訴を取り下げたものの無効とされた者1人がある。

記事の統合について

本ブログでは、内山奈月・南野森『憲法主義 条文には書かれていない本質』という書籍を紹介する記事と、同書中で述べられている違憲審査制についての説明を批判する記事とを公開していた。

しかし今般、これらをそれぞれ独立の記事として公開する意義はないと考え、両記事を統合することとした。統合後の記事が、以下のものである。

統合後の記事のカテゴリーは、「本・映画」とした。

記事を統合するうえで最低限必要な文章の修正等は行ったが、内容面での変更はない。

訂正勧告と大学教員のあり方などについての雑感

はじめに

以下の記事とそれに対するブックマークコメントを読んだ。

「安倍はやめろ」「学長やめろ」で停職3ヶ月についての見解 on Strikingly

はてなブックマーク - 「安倍はやめろ」「学長やめろ」で停職3ヶ月についての見解 on Strikingly

記事によれば、大学が、教員であるハヤシザキカズヒコさんに対し、授業中に「戦争法案絶対反対」等のコールを呼びかけたことなどを理由として、停職3月という懲戒処分を行ったということらしい。

私はこの件について詳細を把握しておらず、そのような状態で言及するのは適切ではないかもしれないが、ブックマークコメントで早期に訂正されるべきだと思われる誤情報が流されているので、取り急ぎ指摘しておく。またあわせて、あくまでも一般論としてではあるが、大学教員のあり方等について感じたことを記しておきたい。

訂正勧告

まず最も重要な点について。

本記事に対するブックマークコメントで、id:cider_kondoさんは以下のように述べている。

本文見てシラバスで「人権・同和問題論」を検索したが、他教官の物はちゃんと表示されるがこの人は出てこない。なお、http://scholar2.fukuoka-edu.ac.jp/sran5/の教員一覧にも名前なし。ちゃんと事務に書類出してるんだろうか?

 

はてなブックマーク - cider_kondoのブックマーク - 2015年11月28日

福岡教育大学の教員一覧にハヤシザキカズヒコさんの名がないとするのは、誤りである。「学校教育講座」の項の9番目に、「林嵜 和彦」の記載がある。

cider_kondoさんに他意はなく、「嵜」がよく用いられる「崎」でなかったために見落としただけだとは思うが、ハヤシザキカズヒコさんの名誉にもかかわる可能性のある事柄であるため、速やかに謝罪・訂正をされた方がよいと思う。

大学教員のあり方など

それにしても記事に対する反応を読んでいて驚いたのは、「授業をやれ」「カリキュラムに沿った内容でなければ授業料詐取」といった類の声が意外なほど大きかったことだ。

これが義務教育であれば話は分かる。生徒が十分な批判能力を有せず、教師の影響を受けやすい義務教育段階では、生徒を「偏った」思想・主張にふれさせることには問題もあろう。また、生徒の側に教師を選択する余地が乏しいことや、全国的に均等な教育の機会を提供するという義務教育の目的に照らしても、予定されたとおりの内容の授業を行う必要性は高いと言えるかもしれない。

しかし、本件で問題となっているのは大学の授業である。もう成人しようかという青年が十分な批判能力を備えている(べき)ことは当然であるし、受講科目はもちろん、進学する大学についても、基本的には自由に選択できる立場にもある。そして、最も重要なことだが、大学における教育とは、高等教育である。高等教育の要諦は、単なる知識の伝達にあるものではない。まずなによりも、学生の知的探究心を惹起すること。そして、その探究心を充足するための手段を示唆し、ときには与えることにこそある。少し長くなるが、内田樹大学における教育-教養とキャリア (内田樹の研究室)より引用する*1

繰り返し申し上げますけれど、高等教育の目指すべきことは一つしかありません。それは「どうしたら学生たちの知性が活性化するか」について創意工夫を凝らすことです。学生たちの目がきらきらと輝き始めるのはどういう場合か、学生たちが前のめりになって人の話を聞き、もっと知りたい、もっと議論したい、もっと推理したいというふうになるのはどういう場合か。それについて集中的に考えるのが大学での教育だろうと僕は思っています。知性というのは情報や知識のような「もの」ではありません。このような、「前のめりの欲動」のことです。前のめりの運動性なのです。

(略)

一度脱皮し、知的なブレイクスルーを経験した学生たちは、後は自分で勉強します。学びの本質は自学自習ですから、後はもう放っておいても構わない。本を貸してくれと言われたら貸し、学会に行きたいと言われたら連れていき、会いたい人がいると言われれば紹介する。それから後の教師の仕事は「点をつなぐ」だけです。ひとたび「学びたい」という状態になった学生に対して教師がする仕事はもうそれだけで十分なんです。ですから、教師にとっての問題はどうやって「学びたい」という思いを起動させるか、それだけです。

このような視点に立てば、決められたカリキュラムに沿って淡々と知識を伝えるという以外の授業の形もありうることになる。最初に述べたとおり、私は本件についてまったく詳細を把握していないのであくまでも一般論にはなるが、現在社会で行われているデモ活動やそのコールの特徴*2を紹介し、その特徴を体感させるべくコールを呼びかけることも、学生の知的探究心を惹起するためのアプローチとして考えられないわけではないと思う。

……などと、ここまで建前論を展開してきたが、より率直で素朴な感覚として、そもそも大学の講義など適当であったり奇矯であったりするのが当然ではないか、という思いが私の中にはある。私より年長の方々から授業のほとんどが雑談だったという類の話を聞く機会は多いし、私自身も、そこまで極端ではないものの、講義における雑談の割合がかなり大きい先生に教わったことはある。何の事前連絡もなく突然休講となり*3、補講等の措置もとられなかったという経験も数回ある*4。大学の講義など、そもそもがそういうものなのだから*5、あまり小さなことに目くじらをたててカリキュラムからの逸脱だ、授業料詐取だ、などと騒ぎ立てることもないのではないかと思う。

懲戒処分

もう一点、本件について停職3月は当然であるとか、むしろ軽すぎるとかいった意見が多いことにも私は違和感を覚えた。

停職3月は、きわめて重い処分である。たとえば、出張旅費等の架空請求を行った教員には停職6月の懲戒処分*6が、タクシーの車内で女性職員の身体に触る等の悪質なセクハラ行為をくり返した教員には停職2月の懲戒処分*7が行われている。停職の対象となるのは、多くの場合犯罪又はそれに準ずる行為その他のかなり悪質な行為なのである。

もちろん再三述べるとおり私は本件の詳細をまったく承知していないので、あくまでも一般論にはなるが、上記のような傾向に照らせば、記事から読みとれる限りやや個性的な授業を行ったにすぎない人物が、仮に個性的すぎて許容できる限度を超えていたとしても、停職3月などという懲戒処分を受けるのは、いかにも重いという印象を受ける。

おわりに

以上、とりとめもなく述べてきたが、本記事において重要なのは、「訂正勧告」の部分のみである。それ以外の記述は、十分な情報に基づいて具体的に本件について言及するものではなく、あくまでも一つの感想として受けとっていただきたい旨、改めて申し上げておく。

*1:なお、引用者において一部文章を省略した。

*2:ハヤシザキカズヒコさんの記事ではラップ調であるという特徴がとりあげられている。

*3:連絡がないので、学生の多くは教室で20分から30分戸惑いながら待ち続ける。

*4:それぞれ別の先生であった。

*5:なお、お前の大学の程度が低かっただけだとのご批判があるかと思うので予め述べておくが、私の出身大学は一流と言われる国立大学である。

*6:http://blog.university-staff.net/archives/2015/02/11/httpwww-9.html

*7:http://blog.university-staff.net/archives/2008/12/28/post-1685.html

本当に「被害者の立場から」死刑存置を主張しているのか

先日の記事を書いていて、死刑存置論者の被害感情に対する姿勢について、残念に感じたやりとりを思い出したので、記しておく。平成26年4月に沖縄で行われたシンポジウムにおける、釜井景介と本江威憙とのやりとりである*1

〇釜井氏

……被害者の遺族の方が裁判のときに死刑を求め、死刑判決が出されたとして、果たしてそれによって被害感情というものは癒やされているのか、死刑判決後の被害者の遺族の状況等については何か御存じかという質問が出されています。この点について、本江先生、何かコメントいただけますでしょうか。

〇本江氏

死刑の執行が行われた後の被害感情というのは、私は実際には聞いたことがありません。私が聞いたのは、おおむね犯罪直後、あるいは犯罪から相当たっていても犯人が検挙された時点での被害者の遺族の声をたくさん聞いたというだけであります。

〇釜井氏

被害者遺族に対する判決後あるいは刑の執行後のフォローといったことについて、本江先生が検察庁で勤務された当時、法務省検察庁内部でいろんな検討をされたといったことはなかったでしょうか。

〇本江氏

執行後のことについては、私は内部でも何も聞いていません。

同シンポジウムで質疑応答の進行役を務めていた釜井が、元最高検察庁公判部長で、同シンポジウムにおける死刑存置論講演者であった本江に対して、死刑判決後の被害者遺族の状況等についてたずねた。死刑判決によって、多少なりとも被害者遺族の被害感情はおさまるのかという趣旨の質問である。

これに対する本江の回答は、そのようなことについてはまったく何も知らないという趣旨のものである。死刑判決後であれ、死刑執行後であれ、それによって被害者遺族の被害感情が少しでも癒やされたかどうかなどまったく知らない。そうしたことについて調べようという動きが法務省検察庁内部であったかどうかさえ知らないというのである。

呆れたものだ。

死刑存置論者のなかには、死刑廃止論者に対して、「殺された側の痛みに思いを馳せろ」だとか、「遺族の苦しみを考えろ」だとかいうようなことを、ややもすれば道理の分からぬ者に説いて聞かせるかのような口調で述べたてる者もある。本江自身も、同シンポジウムでの講演において、以下のように述べていた。

近親者の100%近い人が、やはり犯人に対する死刑を求めているという現実がある。死刑廃止論を唱える方はまず、このことをしっかり受けとめ、たくさんの死刑になった事件記録をお読みになって、あるいはたくさんのこの種の事件の法廷を傍聴されて、こういう被害者の遺族たちの苦しみを、叫びを、まず体感してから、静かに死刑を存続していくか、廃止するべきか考えるべきではないでしょうか。

「被害者の遺族たちの苦しみを、叫びを、まず体感」するべきだとする本江の主張は正当である。被害者遺族の苦しみを完全に理解することはできないにせよ、 ともかくもそれと真剣に向き合おうという姿勢がなければ、死刑廃止の主張は人間性を欠くものとなってしまう。そのようなことは、本江に指摘されるまでもなく、誠実な死刑廃止論者であれば全員十分に自覚し、葛藤している。ところが、「被害者の遺族たちの苦しみを、叫びを、まず体感」するべきだとする当の本人は、死刑が被害者遺族たちの苦しみを少しでも癒やしているのかどうかなどまるで知らないというのである。これでは笑い話にもならない。

「元検事としては、やはり被害者の立場からものを言い、これを世の中に伝えていく責務を負っている」

講演の冒頭で述べた本江の言葉が空しく響く。

 

被害感情の鎮静は重要な課題である。だからこそ、これが加害者を吊るすための口実として体よく利用され、十分に果たされないなどということのないように願う。

*1:同シンポジウムの反訳は、『判例時報』2264号6頁以下に収められている。

「普遍的な意味での被害感情」という奇妙な概念

森炎「自由刑と死刑――死刑制度肯定の立場から」(判時2266号24頁以下)を読んだ。

死刑存置論者と手続保障

表題から分かるとおり、森は死刑制度肯定の立場であり、「今日死刑制度を肯定する者が、死刑制度についてどのように考えているのか」ということが多少なりともうかがえて、興味深い内容であった。なかでも、死刑廃止論者が指摘する「冤罪のおそれ」に対して、森が以下のように明言したことは特筆に値する*1

死刑冤罪を避けるべきは当然であるとしても、そこから引き出される直接の帰結ないしは課題は、(略)裁判制度論になるはずであって、死刑制度論ではない。たとえば、死刑判決に裁判体の特別多数決や全員一致の要件を導入すべきとの提言等々である。そして、そのような手続慎重化論は、死刑肯定論者も多くは受け容れるはずなのである(私自身は「全員一致」)。

私は、以前の記事において、さしあたりわが国が目指すべきは、死刑事件における手続保障の充実である旨を述べた*2。その基盤には、「死刑存置論者も冤罪を減らす努力の必要性は認めている以上、手続保障の充実には賛成するはずであり、実現が容易だろう」との予測があったのだが、森の上記の言明は、まさにこうした予測を裏づけるものであるように思える。大変喜ばしいことであり、私としては今後も死刑事件における手続保障の充実を訴えていきたいと思う。

普遍的な意味での被害感情

死刑存置論の根拠としての被害感情とは何か

ところで、森論文では、死刑存置論の根拠の一つとされる被害感情の問題についても言及されていた。被害感情の問題については、私も以前の記事で扱ったことがあり、「被害感情を考慮することに一定の合理性はあるものの、あくまでも本人ではなくいわば他人の被害感情であることに留意するべきである」旨を述べた。ところが、森は、死刑存置論の根拠としての「被害感情」とは、個々人の生の感情としての被害感情ではないというのである。

まず、死刑存置論が根拠として被害感情を挙げるのは、制度論の次元において一般的普遍的な意味で言うものであって、個々の生の被害感情を指しているわけではない。また、制度の適用としての死刑判決の問題にしても、被害感情をそのまま裁判に反映させることを主張しているわけではない。犯罪被害者の被害感情が国民感情によって是認されることを条件ないしは前提としている(前記の存置論の根拠の①[引用者注:国民感情ないしは国民の法的確信]と②[引用者注:被害者感情の鎮静]の観点)。

(略)

言い換えれば、 存置論の主たる根拠としては、前出の①と②を合わせて、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」と言い表すのが適切である。

これはまったく驚くべき主張である。

被害感情を僭称する傲慢

死刑廃止論者であっても、森がいうところの「個々の生の被害感情」の重要性に疑義をとなえる者は(ほぼ)いない。それをどのようにケアするかという点については、被害者(遺族)への種々の援助によるべきだと考える者の方が多いだろうが、 量刑を重くすることで被害感情の鎮静化を図ることを一定程度是認している者も少なくないと思われる。ところが森は、そのような「個々の生の被害感情」は死刑存置論の根拠ではなく、被害感情が国民感情によって是認される」限りにおいて死刑存置論の根拠となりうるというのである。

私はさきほど紹介した被害感情の問題についての過去記事の中で、「被害者遺族が耐え難い苦しみを味わうであろうことは想像に難くないが、それでも究極的には被害者遺族とは被害者本人ではなく、いわば他人にすぎない。被害者本人の尊厳という観点からしても、そうしたいわば他人の被害感情の重みというものは、被害者本人のそれと比べたとき一歩を譲ることにならざるを得ないのではないか」という趣旨のことを述べた。森が主張するのは、実際には、被害者遺族ですらない、文字どおり赤の他人の、「被害者がかわいそうだから救済してやろう」という国民感情なるものが死刑存置論の根拠であり、それを「被害者感情」などと称しているということとしか思えない。そうであるならば、あまりにも傲慢ではないか。

他の死刑存置の根拠との重複

また、森自身も認めるとおり、従前の死刑存置論においては、「被害者感情」とは別に、「国民感情ないし国民の法的確信」が存置の根拠として挙げられている。そうであれば、「被害者感情」を「国民感情によって是認される」限りにおいて死刑存置論の根拠となりうるものと考えるのでは重複が生じてしまう。

この点について森は、本来は「国民感情ないし国民の法的確信」と「被害者感情の鎮静」とを「合わせて」、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」と言い表すのが適切であるとしつつ、それでは曖昧さを免れないことから、「地に足のついた議論にするために、制度の適用の次元では、あくまで具体的な犯罪被害者の被害感情を中心に論じなければならない」という。

率直に言って、この点の森の主張は理解しがたい。制度適用の次元に限らず、制度論の次元においても、死刑存置の根拠として「被害者感情」が挙げられていることは、森自身が認めているところである。仮に、「曖昧さを排するために、制度適用の次元においては、具体的な犯罪被害者の被害感情を中心に論じる必要がある」との論理を認めるとしても、この論理からは、制度論の次元において(「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」ではなく)「被害者感情」を論じる必要性・妥当性は、まったく導かれない。

加えて、森のように「被害者感情」を解するのであれば、それは「国民感情ないし国民の法的確信」に包含されることは明らかであるから、これのみを根拠として挙げればよいのであって、両者を「合わせて」、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」などという新たな概念を創出する必要性もまったくない。

そもそも、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」の曖昧さを排し、「地に足のついた議論にするために」との理由づけ自体が、きわめて奇妙である。「国民感情ないし国民の法的確信」であれ、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」であれ、それらは抽象的な概念であって、本質的に「地に足のつ」かないものである。そうした抽象的な概念を、無理やり「地に足のついた」ものとするために、実際には「そのまま裁判に反映」させるわけではない「個々の生の被害感情」、つまり「具体的な犯罪被害者の被害感情」のレベルに議論を落としこむというのであれば、それはもはや一種の詐術に他ならない。

したがって、森の考える意味での「被害者感情」を、重複をいとわず死刑存置の根拠として掲げる合理的な理由は、まったく存しないように思える。

結論

以上のとおりであるから、死刑存置論の根拠としての被害感情を、「普遍的一般的な意味」でのものと捉える森の主張は、内容的に妥当でないし、死刑存置論の根拠の整理としても適切でないものと考える*3

おわりに

以上、森論文を読んで思うところを簡単に記した。

森論文のうち被害感情にかかる部分は、死刑存置論の理解に関わるものである。 私は今のところ、森独自の見解にすぎないと考えているが、存置論者(の多く)が森と同様の見解に立つというのであれば、批判の必要があると思う。この点についてご存知の方がいれば、参考文献等をご教示いただけると幸いです。

*1:本記事における引用文には、引用者において省略し、太字強調を施し、あるいは注を付した部分がある。

*2:そして、手続保障の充実に伴う費用の増大によって、死刑制度も廃止の方向へ向かうのではないかとの見込みを示した。

*3:なお、森は「存置論が被害感情を言うとき、個々の被害感情を指しているのではないことは、身寄りのない者が殺人の被害者となる場合のことを考えれば明らかである」という。しかしこのことは、死刑廃止の立場からすれば、「被害感情を過度に重視するべきでないこと」ないし「そもそも被害感情は死刑存置の根拠として不適当であること」を示すものにすぎない。

判例時報の死刑問題特集

判例時報で、2号にわたって死刑問題についての特集が組まれていた。その内容と感想について、簡単に記しておく。

 

「特集 死刑制度を考える【上】」

判例時報』2264号(平成27年9月21日号)が、「特集 死刑制度を考える【上】」。

  • 死刑制度に関する平成26年度政府世論調査の結果を参考にしつつ、わが国の死刑制度存廃論の状況を概観する記事
  • 2014年4月に沖縄で行われた死刑問題シンポジウムの紹介文及び同シンポジウムの反訳

が収められている。なお、同シンポジウムの出演者は以下のとおり。

小川原の講演は、袴田事件を通じて、冤罪事件を戦おうとする者がいかに大きな負担を強いられるかを中心的に説きつつ、死刑手続をめぐるさまざまな問題点をも指摘するものであり、勉強になった。特に、法は死刑確定者が心神喪失の状態にあるときには刑の執行を停止するよう定めているところ*1心神喪失状態にあるかどうかの判断を手続的に争う方法もないとの指摘は、重要であると思う。

本江の講演は、基本的には、かつて千葉景子法務大臣(当時)が設置した「死刑の在り方についての勉強会」*2の第3回において述べたところを詳細にしただけのものであり、あまり目新しい内容はなかったように思う。ただし、取調べの可視化については、勉強会では言及がなかったが、本講演でアメリカの例なども挙げつつ見解が示されている。

質疑等では主に、被害感情、誤判のおそれ、死刑の犯罪抑止力といったテーマについて意見が述べられた。

「特集 死刑制度を考える【下】」

判例時報』2266号(平成27年10月11日号)が、「特集 死刑制度を考える【下】」。

  • 2013年12月に長崎で行われた死刑問題シンポジウムの紹介文及び同シンポジウムの反訳 
  • 森炎「自由刑と死刑――死刑制度肯定の立場から」
  • 松葉知幸「大阪弁護士会における死刑制度に関する活動について」

が収められている。なお、同シンポジウムの出演者は以下のとおり。

  • 講演者・新倉修、土本武司
  • 司会・永岡亜也子
  • コーディネーター・德田靖之
  • 開会/閉会の辞・梅本國和(長崎県弁護士会会長)/岩橋英世(九弁連死刑廃止検討PT委員長)

土本の講演は、絞首刑の残虐性について説くもの。憲法36条にいう「残虐」性は、①肉体的・精神的苦痛、②身体を損傷する程度、③一般人の心情において惨たらしく感じるかどうか、という3点から判断されるべきところ、絞首刑はそのいずれの点においても問題があるとする。なお、絞首刑の与える苦痛については、以前本ブログでもとりあげ、土本の主張についてもその記事の中で紹介したことがある。

新倉の講演は、死刑制度の国際潮流を紹介するもの。国連加盟国は193プラスアルファ、そのうち死刑廃止国は48、事実上の死刑廃止国が42 。アムネスティの報告書によればG8中死刑を執行したのは日本とアメリカのみであり、そのアメリカでもトレンドとして見ると死刑廃止の方向に向かっているとする*3日弁連が行ったテキサスでの調査についての簡単な報告もある。

パネルディスカッションでは主に、死刑を容認する世論、被害感情、誤判のおそれ、更生可能性、という4つのテーマについて意見が述べられた。また、日本における死刑問題の論議の方向性についても提案がなされた。

*1:刑事訴訟法479条1項。

*2:http://www.moj.go.jp/keiji1/keiji02_00005.html

*3:なお、データは講演当時のもの。