規制目的の積極・消極

前回記事に引き続いて、積極・消極の区別についてお話ししたいと思います。

今回は、「規制目的にも積極・消極の区別がある」という話です。

 

規制目的における積極・消極の区別は、主として職業選択の自由などのいわゆる経済的自由権に対する規制で問題となります。

積極目的規制とは、社会・経済政策上の見地からなされる規制のことです。たとえば、大型スーパーに対する出店規制のようなものをイメージすると分かりやすいでしょう。自由競争に任せていると、大型スーパーによる焼畑農業的な経済活動によって地域に根づいた中小の業者が打撃を受け、地方経済が荒廃しかねません。そのような事態を防ぎ地方経済の発展を確保するため、大型スーパーに対して一定の出店規制を課す。これが積極目的規制です。

消極目的規制とは、社会に生じうる危険を防止するためになされる規制のことです。たとえば、医師という職業が資格制になっていることを想起してみてください。専門的な技術を持たない人が自由に医療行為を行っていると、誤った診断・治療等によって多くの人の生命や身体に重大な被害が生じかねません。そのような事態を防ぐため、資格を有する者にのみ医師という職業に就くことを認める(=それ以外の者が医師という職業に就くことを規制する)。これが消極目的規制です。

 

さて、それではここで1つ質問しましょう。積極目的規制と消極目的規制、許容されやすい*1のはどちらだと思いますか。

正解は、積極目的規制です。

積極目的規制の方が一応は許容されやすいと考えられている理由は、前回記事を読んでいる方ならばお分かりだと思います。すなわち、この規制が社会・経済政策上の見地からなされるものであるところ、多様な観点をふまえてより適切なものを選ぶという政策的決断を要する場面においては、政治部門の判断を尊重する必要があるからです。

上記の説明でもまだ分かりにくいという方は、少し大ざっぱな理解になってしまいますが、「利害調整」というキーワードを用いて整理してみるとよいかもしれません。社会・経済政策というのは利害調整をくり返して練り上げられるものです。そして利害調整というのはまさに政治部門の職分です。なので、積極目的規制では政治部門の裁量が広い。これに対して、社会に生じうる危険の防止、それこそ人が生きるか死ぬかというようなことについては利害調整の対象とはなりにくい。そうすると、政治部門の職分からはやや離れている面もあるということで、裁量が多少狭くなる、というわけです。

このように、規制を積極目的と消極目的とに分類し、前者は後者に比して許容されやすいとする考え方を、目的二分論といいます。少なくとも一昔前までは、日本の裁判所は目的二分論の立場をとっていると言われていました。興味のある方は、小売市場事件判決*2薬事法距離制限事件判決*3にあたってみてください。

簡単にだけ説明しておくと、前者は、小売市場の開設について設けられた許可規制が憲法22条1項に反するのではないかということなどが争われた事案です。この点について最高裁は、個人の経済活動に対して社会経済全体の調和的発展を図るため(積極目的!)一定の規制を加えることは憲法の予定するところであるとしたうえで、社会経済の分野においてどのような規制措置をとるか等は立法政策の問題として立法府の裁量的判断に委ねるほかなく、ただ立法府がその裁量権を逸脱し、規制が著しく不合理であることが明白な場合に限って違憲になるとの一般論を示しました。そして、上記許可規制は社会経済の調和的発展を企図するという観点からとられた措置、すなわち積極目的規制であるところ、これが著しく不合理であることが明白だとは認められないとして、憲法22条1項違反の主張を退けたのです。

後者については、以下の記事で紹介しています。

わが国における法令違憲判決まとめ - U.G.R.R.

 

もっとも、今回もくり返しておかねばなりませんが、こうした区別はあくまでも図式的なものであり、いちおうの目安にすぎません。

言うまでもなく、規制が積極目的であるか消極目的であるかの判断はそれほど明快にできるものではありません。たとえば公衆浴場の開設許可にかかる距離制限について、昭和30年の最高裁判決*4では「国民保健及び環境衛生」という消極目的からの規制であると読めるような判示をしているのに、平成元年の最高裁判決*5では「積極的、社会経済政策的な規制目的に出た立法」すなわち積極目的規制である旨を明言していたりします。

また、近時の判例*6には、財産権の規制について、それが是認されるかどうかは「規制の目的、必要性、内容、その規制によって制限される財産権の種類、性質及び制限の程度等を比較考量して判断すべき」としているものなどもあります。こうした潮流に思いを馳せるとき、規制目的だけに着目した単純な二分論ではこぼれ落ちてしまうものがあることは、強く意識せざるを得ないところでしょう。

積極目的規制・消極目的規制という概念はきわめて基礎的で重要なものではありますが、これを絶対視してしまうことのないよう注意してください。

 

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年)

*1:というのは少々正確性を欠く表現かもしれませんが。

*2:最大判昭和47年11月22日(刑集26巻9号586頁)。

*3:最大判昭和50年4月30日(民集29巻4号572頁)。

*4:最大判昭和30年1月26日(刑集9巻1号89頁)。

*5:最判平成元年1月20日刑集43巻1号1頁)。

*6:最大判平成14年2月13日(民集56巻2号331頁)。

積極・消極の区別

先日、積極・消極の区別みたいなことが話題になっていました。

私のはてなブックマークの相互お気に入りの中にも、この区別について戸惑っていたりもっと知りたいと思っていたりする方が何人かおられるようだったので、「憲法上の権利と積極・消極の区別」くらいのテーマで簡単にお話ししたいと思います。

 

さて、ご存じのとおり、憲法上の権利、いわゆる基本的人権日本国憲法の第3章に規定されていますが、これらの権利も、積極的権利や消極的権利(だけではないですが)に分類することができます。3つ例を挙げてみましょう。どれが積極的権利でどれが消極的権利か分かりますか。

  1. 表現の自由(21条)
  2. 職業選択の自由(22条1項)
  3. 生存権(25条)

簡単すぎるでしょうか。正解は、3が積極的権利、1,2が消極的権利です。

消極的権利とは、国家による介入を排除して個人の意思決定や活動を保障する権利です。表現の自由であれば、国家によって自分のしたい表現を禁止されたり、あるいはしたくない表現を強制されたりしない権利(後者を消極的表現の自由といいます)。職業選択の自由であれば、自分の従事する職業の選択等について、国家によって禁止されたり強制されたりしない権利という具合です。これらは、国家からの干渉を排除するものであることから、「国家からの自由」とも呼ばれます。

これに対して積極的権利とは、個人が人間らしい生活を営めるよう国家に対して積極的な配慮を求める権利です。生存権であれば、これを具体化した生活保護法に基づき、国家に対して保護を求める権利という具合です。これは、国家による措置を求めるものであることから、「国家による自由」とも呼ばれます。

想像がつくと思いますが、これらの権利のうち、最初に認められたのは消極的権利の方でした。国家による不当な介入を排除しさえすれば、自律した個人による自由競争のうちに社会は発展し、社会全体の福祉も増進すると考えられていたためです。

しかし産業革命の進展する19世紀の社会において、自由競争は極端な貧富の差をもたらし、貧しい人にとって自由とは飢える自由でしかなくなっていきます。これは例えば、低賃金での重労働を、労働者は契約自由の建前上拒めることになっているけれど、それは蓄えのない彼にとって餓死を意味する、というようなイメージです。そこで、こうした状況を克服し、貧しい人も本当の意味で自由に生きていけるようにするために、積極的権利が認められるようになったのです。

 

こうした権利の性質の違いから、一般的には、 積極的権利に関しては、国家に広い裁量が認められやすくなっています。国家の側が積極的に給付を行うという場面であり、どうしても政治的判断が必要になってくるからです。

一方で消極的権利に関しては、国家に求められているのは積極的な給付などではなく単なる不干渉であること等から、一般的には、その裁量はいくらか狭くなります。また一口に消極的権利と言っても、表現の自由のようないわゆる精神的自由権と、職業選択の自由のようないわゆる経済的自由権とがありますが、傾向としては、前者の権利に対する制約の方が、後者に比べて正当化されにくくなっています。後者の権利については経済政策上の観点からの制約がなされる場合もあり、そうしたときにはその政治的判断をある程度尊重する必要があるためです。

もっとも、こうした区別はあくまでも図式的なものであり、いちおうの目安にすぎません。たとえば生存権であっても、ひとたび立法がなされて一定の制度が整備されたのならば、そこには消極的権利に近い性格が付与され、その制度を後退させたり廃止したりする場合には、ある程度慎重に正当性が検討されることになるでしょう。また、先ほど表現の自由に対する制約は正当化されにくい傾向にあると述べましたが、一口に制約と言ってもその態様はさまざまです。たとえば表現する時間や場所に対する制約であれば、表現内容自体に着目して制約を加える場合に比して正当化されやすいということになるでしょう。さらに言えば、そもそも権利をこのように完全にカテゴリカルに振り分けることなどできません。権利というものは、多くの場合複合的な性格を有しているからです。そうしたことに思いを致さず、「この権利は○○だからこう、その権利は××だからこう」などと機械的に処理してしまうことのないよう、注意してください。

 

以上、積極・消極の区別について簡単に説明してみました。なお、実は今日お話ししたことの3分の2程度は、「わたリベ」カテゴリーの記事ですでに述べています。

わたリベ カテゴリーの記事一覧 - U.G.R.R.

このカテゴリーの記事は、人気がないのですが、これくらいは共有しておいてほしいと思う基礎的知識についてまとめたものなので、読んでいただけるとうれしいです。

 

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年)

わりと普通の感覚だと思うけど

こんなまとめ記事に接しました。

フェミさんの認識「24歳の女性はまだ子供」 - Togetter

50歳近い某男性芸能人が24歳女性と結婚したというニュースに関連して、ある人(フェミニストだそうです)が「自分が当時どうだったかの感覚で考えると、24歳女性なんて子どもに毛の生えたくらいの存在」という趣旨の発言をしたところ、「フェミニストは24歳の女性の正常な判断能力や決定権を否定している」というような例によってズレた感じの批判が集まった、という話のようです。

まず大前提として、個別の案件に対しては当然ながら何も言えないですよね。若くても成熟した人もいれば、いい年して子どもみたいなことを言い続けている人もいる。はてなブックマークなんて後者のタイプの人のたまり場みたいになっていますしね。某男性芸能人と結婚したというその24歳女性の人となりについて知悉していない限り、その件自体についてコメントすることはできない。

ただしそのことは前提としたうえで、一般論として「24歳は子どもに毛の生えたくらいの存在」という感覚は、別にフェミニストに特有というわけでもない、ごく普通のものだと思いますよ。まとめ記事や記事への反応では24歳「女性」というところにやたらとこだわっているものが目立ちますが、男性だとか女性だとか関係なく、24歳じゃまだ社会経験が足りないよね、という話。たとえば裁判員は、当分の間衆議院議員の選挙権を有する20歳以上の者の中から選ぶこととされていますが、制度導入時の議論では、25歳以上の者から選ぶべきこととするべきだという意見もかなり強力に主張されました*1。そこでは京都大学教授や法曹などの錚々たる顔ぶれが、20歳くらいではやはり社会常識・社会経験の面で不安があるというようなことを言っています。……というか、そもそもこんな大げさな例を引くまでもなく、「24歳なんて社会に出たてのひよっ子で、まだ右も左も分かってない(人も多い)」なんていうのは、どこでも見かける言い草でしょう。本当に、「フェミ」がからむと発狂するというか、大したことのない言動までむりやり「フェミ」と結びつけて大騒ぎするの、いい加減やめませんか。

 

【2019年10月1日追記】

誤読されそうな気がするので念のため追記。

私が話題にしているのはあくまでも「24歳は一人前じゃないという感覚」です。より正確には「その感覚が一般的であること」かな。(読めばわかるはずだけど)それ以上のことは述べてません。

つまり、「その感覚」あるいはそれに基づく干渉への評価という部分にはふみこんでないってこと。単に「その感覚」を「フェミ」だけが持つ突飛なものであるかのように捉えるのはいろいろ見誤ってるよねという、それだけの話です。

*1:裁判員制度・刑事検討会(第14回)などを参照してください。

裁判員裁判トリビア

寡聞にして存じあげなかったのですが、安倍を内乱予備罪で告発なんていう動きがあったんですね*1

告発理由が少し気になったので軽く検索してみましたが、「アエラ・ドット」の記事*2によると、以下の3つの「罪状」があるそうです(もっとも、これは1年前の記事なので、その後追加・変更等があるかもしれませんが)。

……うーん。これらは違憲ないし違法の問題を生じうるとは思いますが……。内乱予備とは内乱の予備をすることで*3、 内乱とは「国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動」をすることなのでね……*4。率直に言って構成要件にかすりもしてないと思います。

まあ、告発者もおそらく本気でこのような犯罪が成立すると思っているわけではなくて、告発を通じて問題提起を行い、国民的な動きを巻き起こしたいということなのでしょう。そうであるとすれば、上記のような「罪状」に問題があること自体はたしかなので、ある程度理解できる動きではあります。私自身は、さすがにちょっとのれないですが。

 

ところで内乱罪といえば、私、裁判員裁判とのからみで最近ちょっとした雑学的知識を得たんですよね。こんな犯罪が問題となることなんてほとんどないとは言え、日ごろ条文を丁寧に読んでいれば気づけるはずのことであり、「今ごろかよ」とツッコまれれば恥じ入るばかりなのですが、せっかくなので紹介しておきます。

みなさまご存じのとおり、裁判員裁判の対象事件については、裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(以下「裁判員法」といいます)2条1項に定めがあります。引用します。

第二条 地方裁判所は、次に掲げる事件については、次条又は第三条の二の決定があった場合を除き、この法律の定めるところにより裁判員の参加する合議体が構成された後は、裁判所法第二十六条の規定にかかわらず、裁判員の参加する合議体でこれを取り扱う。

一 死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件

二 裁判所法第二十六条第二項第二号に掲げる事件であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るもの(前号に該当するものを除く。) 

ご覧いただいたとおり、1号で死刑または無期の懲役・禁錮にあたる罪にかかる事件が挙げられています。内乱罪の首謀者については法定刑が死刑または無期禁錮ですから*5、なんとなーく読み流していると、内乱罪にかかる事件は裁判員裁判対象事件なのかな、なんて思ってしまいませんか。

でも、その柱書に「裁判所法第二十六条の規定にかかわらず」とあるとおり、裁判員法2条1項はあくまでも裁判所法26条の特則であり、地方裁判所の扱う事件における裁判体の構成について定めたものなんですよね。

そして、もう見えてきたと思いますが、内乱罪については何か特別なことがありましたよね。そう、裁判所法16条4号。内乱罪にかかる訴訟の第一審は、高等裁判所なのです。せっかくなので、地方裁判所裁判権を有する事項にかかる同法24条と合わせて引用しておきましょう。

第十六条(裁判権) 高等裁判所は、左の事項について裁判権を有する。

一~三 (略)

四 刑法第七十七条乃至第七十九条の罪に係る訴訟の第一審 

第二十四条(裁判権) 地方裁判所は、次の事項について裁判権を有する。

一 (略)

二 第十六条第四号の罪及び罰金以下の刑に当たる罪以外の罪に係る訴訟の第一審

三・四 (略) 

というわけで、内乱罪にかかる事件は、地方裁判所が取り扱うものではなく、また裁判員法には高等裁判所の扱う事件における裁判体の構成*6にかかる特則はなんら設けられていませんから、裁判員裁判の対象とはならないのです。

*1:https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/262358

*2:https://dot.asahi.com/aera/2018090600083.html

*3:刑法78条。

*4:刑法77条1項柱書。

*5:刑法77条1項1号。

*6:裁判所法18条に定めがあります。

無学の「フェミ」叩き

まともに勉強したこともない人が撒き散らす主張の数々は、当然のことながら基本的に頓珍漢でとりあう価値のないものです。その理由についてはかつてやや詳しく述べましたが、簡単にまとめると、以下のような感じです。すなわち、社会科学系の学問においてある程度まともなことを言おうと思えば、過去の議論を参照し、自身の主張あるいは批判対象となる主張がその中でどのように位置づけられるのか、といったことを確認するのが必須の作業となるのですが、まともに勉強したこともない人にそんな作業ができるはずもなく、結果として彼らの主張は場当たり的な抽象化・相対化をくりかえすだけに終わってしまうからです。こちらの拙記事を参照してください。

「自称中立」でした - U.G.R.R.

この文脈で語っていいものかどうか、門外漢なのでやや不安もあるのですが、先ほど見かけた上野千鶴子のハイヒールに関する発言への反発も、不勉強な人びとの頓珍漢な主張の類であるように、私の目には見えました。

上野千鶴子氏「ハイヒールの様な不自然な靴を美しいと感じて履いているなんて野蛮だと思う」 - Togetter

ここでは、「ハイヒールの靴は全部捨てました。こんな不自然な靴を美しいと感じて履いているなんて野蛮だと思う。」との上野の発言に対して、「他人の好みを野蛮呼ばわりするな」「価値観の押しつけだ」といった感じの月並みな批判がズラリと並んでいるのですが、こういうのが先ほど紹介した拙記事でも少しふれている「何事に対しても斜にかまえ、相対化しては悦に入る」態度の好例なのだろうと思います。あるいは「個人主義相対主義の腐ったようなの」とでも表現した方が分かりやすいでしょうか。この手の批判はなーんにも勉強しなくても誰にでも言えますし、どんな話題に対しても言えます。そしてそんな批判には基本的にとりあう価値のないことは、もう述べました。

言うまでもなく、上記の発言で上野が(一次的に)問題としているのは、 ハイヒールを美しいと感じて履く個人ではありません。

(私と同じく)一般教養程度にでも社会学をかじったことのある方であれば当然ご存じでしょうが、ウェーバーと並ぶ社会学の巨人、エミール・デュルケムは、個人の外にあって個人の行為や考え方を拘束する、社会的事実というものがあると考えました。ものすごく乱暴にまとめてしまえば、ある人がある考えを抱くのは、社会によってそう仕向けられている面もあるということです。

一例として、フェミニストとして有名な田嶋陽子の「自分の足を取りもどす」*1という論考を紹介します。味わいのある文章なのでぜひ原文にもあたっていただきたいのですが、この論考の中で田嶋は、ハイヒールを履いてみんなに賞めそやされる少し年上の姉妹を見て、自分も大きくなったらああいう風にハイヒールを履いてきれいになろうと決心したと述懐しています。ここにいう「賞めそやすみんなの声」が、つまり社会です。「ハイヒールが好き」「ハイヒールを履きたい」という好みは、陰に陽に社会の影響を受けて形成されているということです。

そして、ここまで述べれば明らかでしょうが、上野が(デュルケムと同じ仕方でかどうかはともかくとして)問題としているのは、この社会の方なのです。「ひどい! ハイヒールが好みだって人もいるんですよ!」そりゃいるでしょう。でもね、その「好み」はあなた自身が本当の意味で自由に選びとったものですか? 社会に都合よく誘導されているのかも。一度そこに疑いの目を向けてみませんか? これが上野の言わんとするところです。

しかも、その問いかけは必ずしも他者にのみ向けられているわけでもない。先の発言の中で上野は「ハイヒールの靴は全部捨てました」と述べていますが、このことは彼女自身もハイヒールの靴を持っていたこと、すなわちフェミニストである彼女でさえ社会に拘束されており、そこから逃れるのが容易でなかったことを示しています(ちなみに、田嶋も先の論考において、「男社会に言いくるめられて」自分の大きな足を恥じるようになり、そこから脱却するのは容易でなかったとふりかえっています)。その意味で、上野の問いかけは自省の言葉でもあると見るべきでしょう。

……とまあ、まったくの専門外である私程度の知識でもこのくらいは考えが及ぶし、そうすると当然軽々に批判なんてできないわけですが、不勉強な人に限ってなーんにも考えずに「好みは人それぞれ!」などと叫び、それでやりこめたつもりになってるんですからね……。そりゃ「もうちょい勉強しろよ」とも言いたくなるでしょうし、その流れで「大卒」なんて言葉を持ち出してしまう人もいるかもしれません。まあ、実際には当該の分野についてきちんと勉強をしたかどうかが重要なのであって、大学を出ていても話にならない人なんていくらでもいるので、あの表現は二重の意味で妥当でないと思いますけどね。

 

 

【2019年9月25日23時54分追記】

本記事の前半部と脚注2を一時的に削除しております。

おって体裁を整えるつもりでいますが、ご存じのとおり飽きっぽい性分なので、当分このままかもしれません。

  

【2019年9月26日追記】

追記部分を文章末尾に移しました。また、25日付追記時点では、本記事本文の冒頭は「さて、まともに勉強したこともない人が……」となっていたところ、「さて、」を削除しました。たぶん、これ以上手を加えることはないと思います。

なお、25日付追記中「脚注2」とあるのは、「脚注2つ」に改めます。

*1:https://tajimayoko.com/topics/entry-54.html

不同意性交の基礎知識

以下の記事に接しました。

「同意ない性交は犯罪」法改正求め、4万5千人署名提出:朝日新聞デジタル

強制性交罪等における「暴行・脅迫」要件等を撤廃し、不同意性交を犯罪とする法改正を求める約4万5875人分の署名が法務省に提出されたことを報じるものです。

この記事をうけて、例によってよく知りもしない人たちが大騒ぎしているので、うんざりしますが簡単に問題の所在を説明しておこうと思います。

現行法上、強制性交等罪の成立には「暴行又は脅迫」、準強制性交等罪の成立には「心神喪失若しくは抗拒不能」が求められています。

(強制性交等)

第百七十七条 十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛こう門性交又は口腔くう性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の者に対し、性交等をした者も、同様とする。

(準強制わいせつ及び準強制性交等)

第百七十八条 (略)

2 人の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、性交等をした者は、前条の例による。

そして、これらの要件はかなり厳しい。ここにいう「暴行・脅迫」は相手方の反抗を著しく困難にする程度のものであることを要求されますし*1、「心神喪失」は性的行為につき判断力を持たない状態、「抗拒不能」はそれ(心神喪失)以外で抵抗が著しく困難な状態をいうもので*2、やはりハードルとしてはかなり高いものです。 

法改正を求める人びとは、こうした高いハードルが課せられる結果として、本来罰せられるべき行為が罰せられていないケースがあると考えているのだと思います。19歳の娘と性交して準強制性交等罪に問われた父親について、娘の同意は存在しなかったとしながらも、抗拒不能だったとは言えないとして無罪を言い渡した先日の名古屋地裁岡崎支部の判決なども、その一例かもしれません。

19歳の娘に対する父親の性行為はなぜ無罪放免になったのか。判決文から見える刑法・性犯罪規定の問題(伊藤和子) - 個人 - Yahoo!ニュース

さて、ここで重要なのは、「暴行・脅迫」要件等を撤廃し、不同意性交を犯罪とすることで、どのような変化が生じるのか、ということです。先に結論を言ってしまうと、特に変化は生じません。……というと大げさで、実務的にそれなりの変化が生じるだろうとは思うのですが、少なくとも法律をご存じないみなさんが想像するような大変化はまったく生じません。

これは、「疑わしきは被告人の利益に」の原則、いわゆる利益原則と関係しています。利益原則の適用を受ける結果、犯罪事実について存否が不明である場合、その犯罪事実はいわば無いものと扱われ、被告人には無罪が言い渡されます。これが「検察官が犯罪事実について挙証責任を負う」ということです。

ここまで説明すればもうお分かりでしょう。たとえば「同意なく性交等をした者は、○年以上の有期懲役に処する。」というような条文が定められた場合、この「同意なく」というのも当然犯罪事実の一部をなすものですから、これについて検察官が合理的疑いを容れない程度に立証しない限り、被告人は無罪となるのです。

そして、この「同意なく」を立証するためには、「暴行・脅迫」要件等ほど明確なものではないにせよ(現行法は、こうした要件によって被害者の不同意を判断している側面があるのです)、なにかしらの徴憑は間違いなく必要になります。ですから、「暴行・脅迫」要件等の撤廃、不同意性交の犯罪化というのは結局のところ、良くも悪くも、要件の緩和という話でしかないのです。

はてなブックマークでは、性交の原則禁止だの、同意の証明を求められるだのと想像力のたくましい人たちが色々な心配をしているようですが、当然ながらそのようなことにはなりませんので、安心(?)してください。 

*1:最判昭和24年5月10日(刑集3巻6号711頁)。

*2:中森喜彦『刑法各論』(有斐閣、第2版、1996年)67頁。

取調べの録音・録画

この2件が同日に報じられるのは、なかなか皮肉がきいていますね。

取り調べの録音・録画 きょうから義務化 | NHKニュース

取り調べ中に容体急変の大学生死亡 川崎 | NHKニュース

前者は、一定の事件について取調べの全過程を録音・録画することが義務づけられたことを報じるもの。後者は、警察官数人がかりで押さえつけて取調べを行っていたところ容体が急変し意識不明となっていた器物損壊の被疑者が死亡したことを報じるものです。

録音・録画義務化の根拠規定は、刑事訴訟法301条の2第4項です。この程度の規定であっても、たしかに前進ではあると思います。でもねえ……。

後者の取調べは5月中、すなわち前者で報じられている義務化の前に行われたもののようです。しかし、仮にこれが義務化後に行われていたとしても、警察には録音・録画の義務はありませんでした。

大雑把にいうと、刑事訴訟法301条の2第4項が司法警察職員に原則として録音・録画するよう義務づけているのは、以下の2つの場合です。

  • 死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件
  • 短期一年以上の有期の懲役又は禁錮に当たる罪であつて故意の犯罪行為により被害者を死亡させたものに係る事件  

そして、後者の事件の被疑事実は器物損壊です。器物損壊等については、刑法261条が以下のように規定しています 。

(器物損壊等)

第二百六十一条 前三条に規定するもののほか、他人の物を損壊し、又は傷害した者は、三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料に処する。 

ご覧のとおり、器物損壊等の法定刑は3年以下の懲役または30万円以下の罰金もしくは科料であり、死刑または無期の懲役もしくは禁錮にあたる罪にかかる事件にはあたりません。また当然ながら、故意の犯罪行為によって被害者を死亡させるような事件にもあたりません。

したがって、たとえ義務化後であったとしても、警察には後者の事件の取調べを録音・録画する義務は生じないのです*1。なんというか、取調べの録音・録画に対する取り組みが不十分であることをこの上ないタイミングで裏づけた、2件のニュースであるなあと思った次第です。 

*1:なお、義務なき場合でも必要に応じ取調べの録音・録画をすることは妨げられませんので、実際に行われた後者の取調べについて録音・録画が残っている可能性はあります。