トランス女性と女性専用スペースをめぐる問題の整理

はじめに

書こうと思いながら、なかなか手をつけられず時間ばかりが経ってしまいました。この件についてです。

wan.or.jp

できればきちんとしたものを書きたかったのですが、そうした心算でいるといつまでたっても手つかずのままになってしまいそうなので、不十分ではあってもともかく書き上げて公開してしまうことにします。

本記事は、トランス女性による女性専用スペースの利用をめぐる「TERF」と「TERF」批判者との議論の整理を目的とするものです。この議論は、

  1. 性別による区分の是非
  2. 女性とはだれか
  3. 女性であることをいかに証明するか

という3つの問題に分けることができると思います。以下、順に見ていきます。

なお、本記事では便宜上「」付きでTERF(Trans Exclusionary Radical Feminist)の語を用いますが、私自身は「Trans Exclusionary」という形容が必ずしも適切でないと考えていることを、念のために断わっておきます。

性別による区分の是非 

まず、公衆浴場や更衣室等、性的自律に関わるような態様での利用が想定される一定の施設について、性別による区分を設け、割り当てられた性別の者のみが利用できるとすることが正当であるかという問題があります(第一の問題)。つまり、たとえば公衆浴場であれば男湯・女湯を分けること自体が不当(差別)であり、混浴とするべきではないかという問題です。

この点については、おおむね「正当である」ということで意見が一致しており、異論は少ないと思います。

女性とはだれか

第一の問題をクリアできるのならば、「女性用の浴場や更衣室等を設け、女性のみがこれを利用できるようにすること」自体は正当であるとして合意できるはずです。そうすると、次に問題となるのは「女性とはだれか」ということです(第二の問題)。

この点については、(理屈としては)あくまでも生物学的な性に着目すべきだとする立場から性自認こそが重要だとする立場まで、いろいろな考え方がありうると思います。多くの人は、この点に「TERF」と「TERF」批判者の対立――生物学的な性を重視する「TERF」と性自認を重視する「TERF」批判者というような――があると認識しているように見えます。

しかし、このような認識は必ずしも正しくありません。私の見る限り、「TERF」側も性自認を重視する立場が主流であり、トランス女性を女性として扱うことに異議を唱える者は多くはないようです。

女性であることをいかに証明するか

それでは、両者の間で真に対立が生じている問題は何なのか。

仮に第二の問題について、性自認を重視する立場で一致できたとしましょう。そうすると、次に問題となるのは「女性であることをどのように証明するか」ということです(第三の問題)。そしてこの第三の問題こそが、「TERF」と「TERF」批判者との間で真に対立を生じている点なのです。

当然のことですが、互いに面識のない不特定多数者によって利用されることが一般的である浴場や更衣室等について、「女性用設備は女性のみが利用できる」環境を構築し維持するためには、利用者の側に女性であることの一応の証明を求めざるを得ません。これは原理的には、トランス女性であるか「普通の」女性であるかにかかわらず、すべての女性に求めるべきことです。

このとき、生物学的な性と性自認とは一致する例が多いことから、生物学的に女性である者についてはその事実をもって一応の証明があるとしてもよいかもしれません。一方でそうでない者に対しては、性自認が女性であることを他のなんらかの手段によって一応証明してもらう必要があります。その証明はいかなる手段によるべきか。これはとてもこの場で簡単に論じられるようなことではありません。

厳格さを求めるなら、マイナンバーカード等によって(変更された)戸籍上の性別を示してもらうのが確実でしょう。もっとも、戸籍上の性別を変更するためにはかなり厳格な要件が求められますから、それでは厳しすぎると見ればより緩やかな他の手段も考えられるかもしれません。また、同じ女性用設備でも、たとえば局部まで晒すことになる浴場と下着程度にとどまることが多いであろう更衣室とでは、女性のみの利用が確保されなかった場合に生じる不利益にも差がありうるでしょうから、そうした設備ごとの特性に着目して求める証明の程度を変えてみるのも一策です。いずれにせよ、自己申告のみで証明が十分であるということは難しいでしょう。くり返しになりますが、公衆浴場や更衣室といった設備の多くは互いに面識のない不特定多数者によって利用されるものです。そのような身上を把握することのできない不特定多数者の言が真実であるかどうか、確かめる術はないからです。

この難題について適切な解決策を見出すための議論を、「TERF」は求めている。ところが「TERF」批判者の側ではその要求を「トランス女性が女性であることを否定するものだ」と受け取っている。これが「TERF」と「TERF」批判者との間に生じている対立の実態なのだと思います。

おわりに

以上をまとめると、「TERF」が求めているのは、基本的には第三の問題、すなわち「女性専用設備は女性のみが利用できる」環境をいかにして構築・維持するかという点についての議論です。ここにいう「女性」にトランス女性が含まれること(第二の問題)を、彼(女)らは必ずしも否定していないように、私の目には映ります。ところが、「TERF」批判者の側ではこれを、「TERF」が生物学的に女性でない者を女性と認めていないという第二の問題として受け取っているように見える。ここに両者の不幸な行き違いがあるのではないでしょうか。

「女性専用設備は女性のみが利用できる」環境が確立されることは、トランス女性も含めたすべての女性の利益となることだと思います。本記事が、そうした環境を確立するための議論の一助となることを期待します。

ちきりんがブコメ非表示にした経緯って

規約違反

はてな匿名ダイアリーの以下の記事(以下、「増田記事」といいます)に接しました。

ちきりんも残念な人になったな

本文にはちきりん(id:Chikirin)さんのブログ記事へのリンクがはってあるだけ。ちきりんさんのブログ記事はブックマークコメント(以下「ブコメ」といいます)非表示設定となっているのですが、どうもこの増田記事はそこの潜脱を意図するもののようです*1

くり返し述べていることですが、はてな匿名ダイアリーで個人に言及することは基本的に規約違反であり、本件もその例にもれません。削除を申し立てればきちんと対応されるので、ちきりんさんはわずかでも不快なら削除申立てをされればよいと思います。

増田での個人への言及は基本規約違反です・再論 - U.G.R.R.

増田での言及に対する削除申立ての方法 - U.G.R.R.

ちきりんブログがブコメ非表示設定になった経緯 

それはそれとして、上記増田記事等へのブコメをざっとながめていてると、「ちきりんは批判が嫌でブコメ欄を閉じたのだ」との趣旨をいうものが散見されました。

うーん……。

これ、必ずしも誤りとは言えないにせよ、実態はそれらのブコメがイメージしているものと少しニュアンスが違うかもしれないな、という気がします。歴史の片隅に埋もれてしまう前に、ちきりんさんのブログがブコメ非表示設定になった経緯について、私なりの理解を示しておこうと思います。

私が記憶する限り、ちきりんさんのブログは以下の記事公開時点までは、ブコメが表示される設定でした。

TPOに合わせた服装 実践クイズ - Chikirinの日記

ちきりんさんが対談した相手の名前一覧を紹介し、あわせて対談相手の名前は伏せつつ対談の際の服装を紹介する。そのうえで、どの服装の時にだれと対談したかあててみてほしい、というクイズを出した記事です。この記事に対して、id:Midas という人物が以下のようなブコメをつけました。

TPOに合わせた服装 実践クイズ - Chikirinの日記

ひでーファッションセンスwwwなんにも着てないほうがまだマシなレベルwwww

2012/01/30 18:15

b.hatena.ne.jp

「そのボロキレは何?」などのタグまで使用したきわめて侮辱的な内容で、私は当時そのあまりの無礼さに唖然とするばかりでした。この後すぐにちきりんさんのブログはブコメ非表示設定となったので、少なくともブコメ非表示設定の直接的な原因は、このMidas という人物の無礼なブコメにあると私は思っています(誤りがあればご指摘ください)。

この無礼なブコメも批判だというなら、「ちきりんは批判が嫌でブコメ欄を閉じたのだ」という主張は誤りでないと思いますが……、 どうですかね。「批判が嫌でブコメ欄を閉じた」と主張する方々のイメージするところと合致しているでしょうか。少なくとも、私はこのような罵詈雑言にうんざりしてブコメ欄を閉じたとしても、それは至極自然なことだと思います。

ブコメ非表示設定は自由でしょ 

なお念のために述べておくと、ブコメ非表示設定に関する私の意見は以下のブコメのとおり。 

ブクマカ「ブコメを非公開にするのは卑怯」

ブコメ非公開が卑怯」は本当にバカげてる。人様の記事に寄生させていただいてる自覚がないのかね。身の程を知れ

2020/07/18 18:27

人様の記事に寄生させてもらっている分際で文句をたれるなどあまりにおこがましい。上記のような事情の有無にかかわらず、ブログ運営者は自由にブコメ非表示設定にしてよく、そのことによって非難される筋合いなど全くないと思います。

*1:ちきりんさんの記事へのブコメをこの増田記事につけることによって、ちきりんさんの記事へのブコメが表示されているのと同じ状態をこの増田記事で達成しようとするものであるようだ、ということです。

一方、日当買収はブクマ3件!

枝野幸男のツイート*1に批判が集まっているようで。

枝野氏ツイートに脱法的と批判 都知事選当日「宇都宮」強調 | 共同通信

[B! 枝野幸男] 枝野氏ツイートに脱法的と批判 都知事選当日「宇都宮」強調 | 共同通信

簡単に言うと、先の東京都知事選投開票日に枝野が、「宇都宮で育った自分にとってビールもライスもないのが餃子の店だ」との旨などを、ハッシュタグ「#宇都宮」を使った形でツイートした。しかるところ、先の都知事選には宇都宮健児が立候補していたため、このツイートが投開票当日に特定候補への投票を呼び掛けることを禁じる公職選挙法の潜脱ではないかとして批判されている、という話のようです。

このツイート自体を見る限り内容的に特段不自然なところがあるわけでもなく、そこに何らかの他意があったのかどうか、私には判断できません。もっとも、このツイートがなされた経緯や前後の状況等を勘案すればまた違った評価もありうるのかもしれず、今のところ私はそこまで精査するつもりもないので、この点について意見を述べることは差し控えたいと思います。いずれにせよ、ネットではこのツイートに対して批判が殺到し、上記共同記事へのはてなブックマークは2020年7月8日夜の時点で150を超えています。

ところで、この件が報じられるほんの1週間ほど前に、こんなニュースもありました。

自民・谷川氏陣営の2人起訴 運動員への日当買収の罪:朝日新聞デジタル

[B!] 自民・谷川氏陣営の2人起訴 運動員への日当買収の罪:朝日新聞デジタル

簡単に言えば、自民党衆議院議員谷川弥一の陣営関係者らが、運動員に対して違法な報酬を支払ったとして起訴されたという話です。こちらは起訴までされており 、事実であるならば明確な犯罪行為です。どう考えてもこちらの方が選挙の公正を害しうる度合いの大きい深刻な案件だと思うのですが……、この件を報じる上記朝日記事に集まったはてなブックマークは……、2020年7月8日夜の時点でなんと……、

たったの3件。

いやはや、はてなユーザーの公正さに対する感覚にはすばらしいものがありますね*2。 

ちなみにこの谷川弥一、第二次安倍内閣で文部科学副大臣を務めたこともある人物。いわゆるカジノ法案審議の際に「あまりにも時間が余っているので」などと述べて般若心経を唱えたり夏目漱石の作品紹介を始めたりしたことでも知られています*3。当時、さすがに政権与党たる自民党の議員は「何でも反対」の野党議員とは審議に対する姿勢が違うと感心させられたものです。

ともあれ、日当買収については単に内輪の悪ノリや品位の問題などとして片づけられる案件とはわけが違うと思うので、茶化してばかりもいられません。各位におかれてももう少し注意をもってこの件の行方を見定めていただければ幸いです。

*1:https://twitter.com/edanoyukio0531/status/1279532495512367104

*2:なお、上記3件は全て無言ブクマです。

*3:平成28年11月30日衆議院内閣委員会における発言。

もやウィンにも分かる基本的人権の尊重

はじめに

ツイッターで、自由民主党の公式アカウントである「自民党広報」が、いわゆる憲法の三大原則を説明する漫画をアップしているのですが、「基本的人権の尊重」についての説明部分*1が少し気になったので、記事を書いておきます。

この漫画は、もやウィンというキャラクターが憲法について説明していくという流れになっています。漫画の中で、もやウィンは、「基本的人権の尊重」について次のように述べています。

「人間が生まれながらにして持っている、人間らしく生きる権利を永久に保障する」

「例えば、言論の自由だったり、職業選択の自由だったり、」

「つまり、法律にふれたり、人に迷惑かけない限り自由ってことで…」

うーん……という感じ。一度基礎から説明しておいた方がよいかもしれませんね。

基本的人権とは 

そもそも基本的人権は、「宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」とするポツダム宣言10項*2に由来するものです。日本国憲法においては、11条と97条にその文言が出てきます*3

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

実は、「基本的人権とはなにか」ということについては、ちょっとした争いがあります。憲法に規定されているものはすべて基本的人権なのか、という問題です。

この問題については、もやウィンの言うように「人が生まれながらにして当然に持っている権利」 が基本的人権であるとする考え方が通説です*4。こうした考え方に立つと、たとえ憲法に規定があっても刑事補償請求権(憲法40条)のようなものは基本的人権ではないということになります。もっとも、こうした議論は(一般の方にとっては)些末なことで、もやウィンがいうような表現の自由職業選択の自由基本的人権であることに全く争いはありません。

基本的人権の尊重とは「法律にふれない限り自由ってこと」なのか

さて、ここまではよいとして、問題はその次。基本的人権の尊重とは「法律にふれたり、人に迷惑かけない限り自由ってこと」なのでしょうか。

そのように考えていたと思われるのが、大日本帝国憲法です。たとえば言論(表現)の自由等について規定した大日本帝国憲法29条は以下のようなものでした。

第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

しかし、このように基本的人権の尊重を、「法律ノ範囲内ニ於テ」、つまり法律にふれない限り自由ということだと解するならば*5、法律を制定しさえすればいくらでも好き勝手に自由を狭められるということにもなりかねません。実際戦前には、治安維持法などの法律によって厳しい思想・言論の統制が行われていたことはよく知られているところです。

こうしたことへの反省から、現行憲法では「法律ノ範囲内ニ於テ」というような法律の留保は極力排されています。たとえば、表現の自由について規定した現行憲法21条は以下のようになっています。先に紹介した大日本帝国憲法29条と比べてみてください。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 

このような現行憲法下において、基本的人権の尊重はむしろ、法律によっても侵すことのできない権利の擁護という側面を強調して理解されるものとなっています。

たとえば、こんにちでも国会はさまざまな法律を制定して市民の権利を制約することができます(憲法41条)。しかし、そこで制約しようとする権利が基本的人権として憲法上の保障を受けるものである場合、制約は原則として許されません*6。「基本的人権は法律によっても侵すことができないもの」という考え方が基本にあるからです。

では、許されないにもかかわらず、無理に法律を制定して違反者を罰しようとした場合にはどうなるでしょうか。その場合、裁判において裁判所が「その法律が憲法に違反していないかどうか」を審査し(憲法81条)、違反しているとなれば、裁判所はその法律を無効(憲法98条1項)なものとして判断を下すことになります。つまり、その法律は無効なのですから、法律に違反しているとして罰せられることはありません。このようにして、基本的人権は法律による侵害から守られることになります。これが、「基本的人権の尊重」の1つの具体的なあらわれです。

以上の説明をふまえれば、基本的人権の尊重とは「法律にふれ……ない限り自由ってこと」というもやウィンの説明が必ずしも正しくないことは分かると思います。 たとえ法律にふれるとしても、その法律が基本的人権を侵害するものであるならばむしろ法律の効力の方を否定し、そのことによって基本的人権を保障する。基本的人権の尊重とはこのようなものなのです。

おわりに

以上、基本的人権の尊重について簡単に説明しました。参考になれば幸いです。

*1:https://twitter.com/jimin_koho/status/1278958536765005825

*2:国立国会図書館のウェブサイトに「憲法条文・重要文書」として掲載されているもの(なお、出典は外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊とのこと)を参照しました(https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html)。

*3:太字強調は引用者によります。以下同じ。

*4:たとえば、佐藤功日本国憲法概説(全訂第4版)』(学陽書房、1991年)132頁参照。

*5:ちなみに、これを「法律の留保」といいます。

*6:なお、ここで「原則として」と述べたのは、基本的人権の保障も絶対のものではなく、他の人権との調整を図るなど一定の場合には「公共の福祉」による制約を受けるからです。この点についてはすでに「公共の福祉とリベラル(1)」から「公共の福祉とリベラル(4)」までの記事において説明しているので、そちらを参照してください。さしあたり、(1)へのリンクはこちら

藤井聡太は強いというより凄い

藤井聡太が成し遂げたこと

藤井聡太七段の快進撃がすごいですね。

藤井七段 王位戦でも挑戦者に 棋聖戦に続きタイトル挑戦へ | NHKニュース

将棋の藤井聡太七段 「棋聖戦」連勝で最年少タイトルに王手 | NHKニュース

すごく話題になっているので、思い立って藤井聡太がこの3年ほどの間に成し遂げたことをまとめてみました。

前人未到の29連勝

まずは言うまでもなく、プロ入り早々に成し遂げた29連勝*1。無論、1年目ということもありレートの低い対戦相手が多かったという部分はありますが、仮に9割勝てる相手ばかりだったとしても29回続けて勝つのはきわめて難しいことです(確率的には5%にもみたないでしょう)。まして、連勝を続けていけば対戦相手も当然手ごわくなります。そうした中で、30年ぶりの大記録を達成したのはほとんど信じがたいことのように思えます。

朝日杯連覇

また、藤井聡太は全棋士参加棋戦である朝日杯も連覇しています*2。これも、当然ながらすごいことです。特に1度目の優勝の際は一次予選からの参加ですから、負けたら終わりのトーナメント戦で10連勝を達成する必要があります。そのような厳しい条件下で、佐藤天彦名人(当時)や羽生善治竜王(当時)といったタイトルホルダーをなぎ倒して堂々の優勝を果たしたのは、圧巻の一言です。

新人王戦優勝

新人王戦優勝の最後のチャンスを逃さなかったのも格好いいですね*3。新人王戦には「26歳以下」かつ「六段以下」という条件があるため、スピード昇段を果たした藤井聡太が参加できるのは第49期新人王戦が最後だったのですが、その最後の戦いで藤井聡太はきっちり優勝し、最年少優勝の記録を塗り替えて新人王戦を「卒業」します。やることがいちいちドラマチックです。

順位戦竜王戦での活躍

順位戦竜王戦での着実な昇級も見逃せません。名人位と竜王位はタイトルの中でも特に序列が高く*4、これらのタイトル獲得につながる順位戦竜王戦も大変重要視されているようです。このことは、たとえばNHK杯などでの棋士紹介が、「竜王戦は○組、順位戦は×級です」というような形で行われることからも分かると思います。これらの重要棋戦において、藤井聡太の取りこぼしはきわめて少ないのです。

まず順位戦では、藤井聡太はC級2組を10戦全勝で一期抜け。C級1組では9勝1敗で頭ハネを食らうも、翌期には10戦全勝で昇級を果たしています*5。C級などというと下位の棋士が在籍するところで抜けるのは容易というイメージになりがちですが、どうやらそうではないようです。C級2組は約50人中3人、C級1組は約35人中2人のみが昇級できるという熾烈な争いであり(当時)、過去にはタイトルホルダーがC級2組に在籍していたこともあったといいます。決して楽な戦いではないはずなのですが、そこをスムーズにクリアしていくのはさすがです。

竜王戦での活躍にもすさまじいものがあります。竜王戦ではまず1組から6組に分けてランキング戦(トーナメント戦)を行い、各組の成績優秀者が本戦に進出する(なお、上位の組の成績優秀者ほど本戦で有利な位置につけることができます)という仕組みになっているのですが、そのランキング戦において、藤井聡太は、6組、5組、4組、3組の4組連続優勝を果たしています。ランキング戦負けなしの20連勝です*6。本戦の方で勝ち進めていないためあまり注目されていませんが、この4組連続優勝も史上初らしく、すばらしい記録だと思います。

藤井聡太は強いというより凄い 

今回私は、調べれば調べるほど、藤井聡太がわずか3年ほどの間にこれほどのことを成し遂げたのが信じられないような気持ちになりました。

藤井聡太は強いのだから、華々しい活躍をするのは当然ではないか」

そう思う人は多いかもしれません。私自身も当初はそう思っていました。しかしどうやらそうでもなさそうなのです。

このことを説明するために、「shogidata.info」というウェブサイト*7を紹介させてください。このサイトでは、プロ棋士の強さをイロレーティングという指標で表しています。この指標では、平均的なプロ棋士のレーティングは1500とされ、レーティング差が100あると上位者の勝率は約64%となるそうです。

このサイトによれば*8、2020年7月1日時点における藤井聡太のレーティングは1976で1位。さすがの数値ではありますが、2位の豊島将之とのレート差は33にすぎず、そこまで圧倒的というわけでもありません*9。それに、そもそも彼のレーティングがここまで高くなったのは2020年になってからであって、上記のさまざまな偉業を成し遂げた時の彼は、少なくとも棋力的にはトップ層に次ぐ上位棋士の1人という程度でしかなかったように思われます。たとえば対戦相手のレーティング別に藤井聡太の勝敗を年ごとでまとめてみると、以下の表のようになります。

  2017 2018 2019 2020
1300~   6-0    1-0    2-0    0-0 
1400~  16-1    8-0    6-0    3-0 
1500~  16-1   15-2   12-0    9-1 
1600~   9-2   10-1   10-1    2-0 
1700~   6-4    8-3   13-7    5-1 
1800~   0-2    3-2    4-2    6-1 
1900~   0-0    0-0    1-2    4-0 

この表を見ればわかるように、プロ入り1年目である2017年の段階では、藤井聡太はレーティング1600台以下の相手には大きく勝ち越しているものの、レーティング1700台の相手との対戦成績は比較的拮抗しており、レーティング1800台の相手には勝てていません。上位者との対戦数が多くないため断言しにくい部分はありますが、こうしたことからすれば、プロ入り1年目の藤井聡太のレーティングは1700台半ばくらいだったのではないかと思われます。もちろんこれは高い数値ではありますが、しかし(ここに多少の上積みがあったとしてさえ)上記のような数々の偉業を達成するのに十分なほど高いとは決して言えないでしょう。

たとえば、藤井聡太が達成した29連勝の対戦相手には、レーティング1700台の棋士が5人も含まれていました。これら同格の棋士相手に5連勝するというだけでもハードルが高いことは、説明の必要すらないと思います。また、レーティングが1700台であるとすれば、同格あるいは格上の棋士がおそらく20から30人くらいは存在することになりそうですが、そんな中で全棋士参加棋戦において一次予選から勝ち上がって優勝を果たし、さらには連覇までしてしまうというのも、彼の棋力から通常想定されるラインをはるかに超えるようなアチーブメントであると言ってよいでしょう。

このように見てみるとき、私は藤井聡太に強さよりもむしろ凄さを感じずにはいられません。彼は明らかに自分の実力以上の大きな成果をあげている(ように見える)。それは、記録のかかった対局や重要な棋戦で実力を十分(あるいは十分以上)に発揮してしっかり勝ちきっているということです。そして、そんな風にここぞという場面で輝ける(自分の最高のパフォーマンスを発揮できる)のはスターにとってとても大事なことだと、私は思っています。めぐってきたチャンスを逃さず、しっかりとものにする。そのようにして得た地位や名声が、その者の実力をそれらに見合うところにまで引き上げる……スターの歩む道とは、往々にしてそういうものです。そんなスターの歩む道のど真ん中を、 藤井聡太は進んでいるように見える。その点に、私は彼の凄さを感じるのです。

今回のダブルタイトル挑戦でも、藤井聡太はめぐってきたチャンスを逃さず栄冠を勝ち取るのでしょうか。注目したいと思います。

*1:https://www.shogi.or.jp/match_news/2017/06/29.html

*2:https://www.asahi.com/articles/ASM2J513WM2JUCVL009.html

*3:https://www.asahi.com/articles/ASLBD75YDLBDPTFC00R.html

*4:https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20190611-00129656/

*5:https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20200303-00165937/

*6:https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202006200000970.html

*7:https://shogidata.info/

*8:以下、データはいずれもこのサイトのものを利用しています。

*9:この程度のレート差ならば、上位者の期待勝率はせいぜい55%程度でしょう。

裁判官の育児休業取得に関する男女格差

岩瀬達哉『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』(講談社、2020年)を読みました。

裁判官も人である 良心と組織の狭間で

司法行政部門による人事システムを通じた裁判官の支配、司法と政治部門との微妙な関係、そうした中で個々の裁判官が直面する死刑や冤罪の問題……。司法に対してさまざまな角度から光をあてることで、その内幕を明らかにしようと試みる意欲作です。平賀書簡事件など憲法の教科書にも載っているようなものから、SNS投稿等を契機としてなされた岡口基一裁判官に対する戒告処分のような最近のものまで、取り扱われる話題はかなり多岐にわたっているので、どなたでもきっと興味のあるトピックを見つけられると思います。引用文献が丁寧に示されているのがすばらしいですね。

面白い話題はいろいろありましたが、裁判官の育児休業取得に関する男女格差の問題についてはちょっと考えさせられました。

同書によれば、裁判所の育児休業制度は1991年12月に制定されたものの、その後2009年11月27日までの間(まる18年間!)に育休を取得した男性裁判官はたった1人だったと言います。そのこと自体も驚きですが、2001年に育休を取得したというそのたった1人の男性裁判官に対する仕打ちがまた酷い。同書81頁より引用します。

上司の裁判長は、自分の部から男性初の育休裁判官が出ることで、管理能力を問われることを怖れたのかもしれない。嫌がらせとも思える指示を出している。育児休業の取得について次のような「上申書」を書くよう命じたのである。

「育児休暇中に周りに迷惑をかけて申し訳ありません。職務復帰後は迷惑をかけた分を取り返します」――。

それまで育休を取った女性裁判官で、このような「上申書」を書かされた人はいなかったという。そればかりか、平野が責任者として進めていた「民事執行改革プロジェクト」からも外されてしまった。

「育休で迷惑をかけて申し訳ない」との趣旨の上申書の提出を命じられ、プロジェクトからも外される……。この育休を取得した男性裁判官は、結局育休の終了とともに依願退官することを決めたそうです。

もちろん、育休の取得やそれをめぐって生じたかもしれない周囲との軋轢に関しては、一方からの言い分のみを丸呑みにするべきではなく、別の見方ができるようなところもあるのかもしれません。しかしいずれにせよ、法律によって規定されている育休を取得することで「申し訳ありません」などと謝る筋合いが全くないのはたしかでしょう。そうした感覚はたとえ20年前であっても裁判官を務めているような人物なら当然身につけているはずだと思うのですが、なぜこのような愚挙に及んだのか、全く理解に苦しみます。やはり自らのこととなると物の道理が見えなくなるものなのでしょうか。私自身も気をつけねばならないと感じました。

ちなみに、同書のいう裁判所の育児休業制度とは裁判官の育児休業に関する法律を指すものと思われますので、その法案に関する国会審議を確認してみたのですが、これもなかなかのものでした。平成3年12月16日衆議院法務委員会における泉德治*1冬柴鐵三とのやりとりを引用します。

○泉最高裁判所長官代理者

それからこの女性の裁判官の出産でございますが、昨年女性裁判官で出産いたしました者は九人でございます。過去五年間の平均をとりますと、平均八人の女性裁判官が出産をいたしております。

この育児休業法ができましたときには何人ぐらいの育児休業をとる者が予想されるかという御質問でございますけれども、平均でまいりますと、最大八人とる可能性はございます。ただ、現在女子教職員等について育児休業制度というのはできておりますが、それの取得率を見ますと、七割というふうに聞いておりますので、七割といたしますと、六人ということになります。六人から八人程度の者がとることが予想されるわけでございます。

○冬柴委員

今の人事局長の答弁は、出産した人しか請求しないというような意識で聞いていられるようですけれども、法律は、配偶者が出産したら、夫である裁判官も休業請求できるわけでありまして、今後そういうドライな裁判官、ドライと言ったらおかしいですが、法律どおりに権利を行使される方もあるかもわかりません。その可能性も考えながら、人事の配置その他裁判事務が渋滞しないように考えていってほしい、このように思います。

やりとりを見れば明らかなように、ここで泉は完全に育休を取るのが女性裁判官のみであるという前提で答弁を行っています。そしてこれを受けて冬柴は、法律上は夫である裁判官も育休取得できることを指摘したうえで、そのように法律どおりに権利を行使する者を「ドライ」と評している(さすがにすぐ後に「ドライと言ったらおかしいですが」とのエクスキューズをつけてはいますが)。

率直に言って、私はこの「ドライ」という言葉に、「人情の機微を解せず、法律の文言を盾にとって自己の利益確保に固執する者」というような、ある種否定的なニュアンスを感じました。もし法律どおりに権利行使をすることに対してそのような否定的評価を下しているのだとすれば全くもって許しがたいことですが、ともあれ、ここから読み取れるのは、「育休は女性がとるもの」という強固な思い込みにほかなりません。法案の審議にあたっている者からしてこのような意識なのですから、現場の男性裁判官が育休をとるのは、それは難しかろうと納得してしまいました。

なお、現在ではこうした状況はある程度改善されており、裁判所が公開している「育児休業取得率,配偶者出産休暇取得率,育児参加休暇取得率(平成30年度)」*2によると、平成30年度の実績では、男性裁判官の育休取得率*3は10.9%となっています。まだまだ十分とは言えないかもしれませんが、もはや上記のようなやりとりを無神経に行える時代でなくなったことはたしかでしょう。少しずつであっても、世の中が良い方向に進んでいるのは嬉しいことです。 

*1:のちに最高裁判事を務めるあの泉です。

*2:https://www.courts.go.jp/vc-files/courts/file4/H30ikukyu_haiguushashussan_ikujisanka.pdf

*3:当該年度中に新たに育児休業(再度の育児休業者を除く。)を取得した人数を、当該年度中に新たに育児休業の取得が可能となった職員数で除したもの。