何人殺すと死刑?

先日、ある事件の被告人が被告人質問において「3人殺すと死刑なので2人までにしておこうと思った」旨供述しているとの報道に接しました。

「3人殺すと死刑なので2人までに」 新幹線殺傷、公判で被告 - 毎日新聞

どうも誤解があるようなので、死刑の選択基準等について簡単にお話ししておきたいと思います。

死刑の選択については、いわゆる永山基準というものがよく知られています。これは、最高裁判所昭和58年7月8日判決(刑集37巻6号609頁)において、死刑選択が許される場合を判断する基準として示されたものです。引用します。

死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。

ここでは、たしかに「結果の重大性ことに殺害された被害者の数」として被害者数が考慮要素に数えられていますが、それ以外にもさまざまな事情が考慮要素として挙げられていることが分かると思います。実際、強盗殺人など犯行が金目当てのものである場合や被告人に殺人の前科がある場合などには、厳しい判決が言い渡されることが多くなります(死者1名で死刑とされるのはほぼこうした事情があるケースです)。

つまり、「何人殺すと死刑?」という表題に対する回答としては、「殺した人数だけで死刑が選択されるかどうかを判断することはできない」ということになります。

このように説明しても、「そんなのは建前で現実には3人以上殺していないと死刑にはならないんじゃないの 」と思われる方もいるかもしれないので、裁判員裁判を経て死刑が確定した事件とそれぞれの事件における死亡者数との関係を示しておきましょう。なお、以下の表は、特定非営利法人CrimeInfoのウェブサイト『CrimeInfo』*1の「死刑確定者リスト 全リスト」および最高裁判決が出ている場合には当該判決を参照して作成したものです。

死亡者数 0 1 2 3 4 5~
事件数 0 1 12 7 0 3 23

現在までに、裁判員裁判を経て死刑が確定した事件は23件*2。そのうち12件は、事件による死亡者数が2名のものです。少なくとも「3人以上殺していなければ死刑にはならない」などということはないと分かっていただけると思います。

*1:https://www.crimeinfo.jp/

*2:控訴取下げの効力を争っているとされる1件については除きました。

アリストテレス、クソ食らえ

マッキノンは、ポルノ規制やセクハラ問題といった個別のイシューの背後にある理論に着目して読むと吉ですね。特に重要なのは平等論だと思います。アリストテレス以来の平等観に堂々と挑んだのは実にかっこいい。

ここにアリストテレス以来の平等観とは、「同じものは同じように、異なるものは異なるように扱う」というもの。いわゆる相対的平等です。

わが国の憲法14条1項もこの相対的平等を志向するものであり、たとえば最高裁大法廷判決昭和39年5月27日(民集18巻4号676頁)も以下のように述べています。

右各法条*1は、国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは、なんら右各法条の否定するところではない。

事柄の性質に応じて合理的な区別をすることは憲法14条1項の否定するところではない。つまり、同条項にいう「平等」は、異なるものは異なるように扱う相対的平等だということです。

マッキノンは、このような相対的平等の考え方を、むしろ不平等に加担するものだとして退けます。

私自身も相対的平等の考え方に染まっていましたからはじめてマッキノンの主張に接したときは戸惑いましたが、しかし言われてみればたしかに一理あるように思われます。

たとえば、わが国の強制性交等罪(刑法177条)を想起してください。

(強制性交等)

177条 十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛門性交又は口腔性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の者に対し、性交等をした者も、同様とする。

 強制性交等罪とは一昔前には強姦罪と呼ばれていたもののことですが、ご覧のとおりこれが認められるためには暴行・脅迫が用いられていなければなりません。しかもここにいう暴行・脅迫は、相手の反抗を著しく困難にする程度のものであることが要求されており*2、きわめて高いハードルとなっています。

もっとも、この厳しい要件は男女どちらに対しても同じように課されます。そしてまた、強制性交等罪の構成要件について男女で差を設ける合理的な理由は一応存しないと言ってよいでしょう。したがって、これは「同じものを同じように」扱っている、すなわち相対的平等に適うものとひとまずは考えることができそうです。

ところで、強制性交等罪のこのような高いハードルは、いったいどのような結果をもたらすでしょうか。このことを考えるために、平成30年版の犯罪白書を見てみましょう。 白書によると、平成29年における強制性交等罪の認知件数は1109件。うち、被害者が女性のものは1094件です*3。つまり、認知されたほぼすべての事件において、被害者は女性なのです。

きわめて厳しい構成要件、そして100パーセント近い総被害者数に占める女性の割合。これらの事実からは、次のような結果が導かれるのではないでしょうか。すなわち、平等の美名の下、強制性交等罪が両性に対して等しくきわめて厳しい構成要件を突きつけたことにより、(ほぼ)女性だけが被害を訴えても強制性交等罪で犯人を罰してもらうことができず、泣き寝入りするしかない状況におかれるという結果です。

そしてマッキノンは、こうした平等の名に隠れた不平等が、たまたま生じたものだとは決して考えません。平等の名の下で、女性だけが不平等を強いられるのは必然なのです。なぜなら、法律は男性が作ったものだから。

このことは、フェミニズムの歴史をひもとけば分かりやすいでしょう。まず第一波フェミニズムが公私二元論を前提として公的世界での平等から求め始めたことでも明らかなように、長く女性には公、すなわち政治(そこには当然立法も含まれます)への参加が認められませんでした。国政への女性の参加が認められるようになってから、アメリカでようやく100年、日本では75年程度にすぎません。

無論、第二波フェミニズムが明らかにしたように、建前上女性が政治参加できるようになったとしても、それによって直ちに女性が政治に影響を及ぼせるわけでは全くないのですが、しかしこと法律に関してはそのようなことを考慮する必要すら(あまり)ありません。なぜなら、多くの法律(少なくともその基本的枠組み)は、女性の政治参加が認められる以前の時代に、文字通り男性によって作られたものだからです。

そして、男性によって作られた法律は、見かけのうえで平等に見えても、多くの場合男性にとって都合の良いものになっています。先ほど挙げた強制性交等罪のように。これは私なりの理解で言うならば、次のような理屈だと思います。すなわち、「同じものを同じように扱う」という場合、「同じように」の基準となる取扱いが必要となります。そして、この基準となる取扱いを男性がすでに独占的に決定してしまっている結果、たとえ「同じように」扱われたとしても、基準自体が「男性目線」の独りよがりなものであるために女性は不利益をこうむる、というわけです。

こうしてマッキノンは、相対的平等がむしろ不平等に加担しかねないものだと喝破します。深い洞察だと思います。

 

純粋に法的に考えるならば、マッキノンが相対的平等への疑義を呈する際に挙げる例の大部分は、立法不作為の問題などに位置づけるべきものだと思います――なお、そのように位置づけた場合には、これを違法とすることはきわめて難しくなります。たとえば日本の場合、立法の内容や立法不作為が国賠法上違法の評価を受けるのは、「国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や、国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり、それが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合など」の例外的な場合に限られるとされています*4。マッキノンもそれが分かっているから立法不作為の問題とはしなかったのかもしれません――ので、私はマッキノンに全面的に賛同するわけではありません。それでも、上述のようなマッキノンの洞察は、無神経にも「男性目線」を当然の前提としてものを考えがちな現代社会に対する痛烈な批判として、きわめて価値あるもののように思えます。

参考文献

キャサリン・マッキノン著/森田成也、中里見博、武田万里子訳『女の生、男の法(上)』(2011年、岩波書店

*1:憲法14条1項および地方公務員法13条(引用者注)。

*2:最判昭和24年5月10日(刑集3巻6号711頁)。

*3:http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/65/nfm/n65_2_6_1_1_0.html#h6-1-1-02

*4:最大判平成17年9月14日(民集59巻7号2087頁)。

規制とはなにか

前回記事で規制目的の積極・消極について話しましたが、そう言えば規制自体についてはふれなかったので、その点についてもごく簡単に言及しておこうと思います。

この「規制」という語も随分いいかげんに用いられていて、先日もid:kotobuki_84という方が「ゾーニング要求は表現規制だ」などと述べていました。

“ゾーニング要求は表現規制ではない”について(おへんじ追記)

AがBにあたるかという議論をする際には、Bの定義を示したうえでAがそれに該当するかどうかを検討するというのが基本ですが、この方は、ゾーニング要求は「原則としては表現規制だと思います」としか述べず、表現規制の定義すら示していないので、そのお考えを知ることはできません。おそらくこの方の「お気持ち」としてはそうだということなのでしょう。それはそれで好きにされればよいと思います。

しかし一般的には、規制とは、「規則を制定・適用して物事を制限すること」をいいます。そうすると、規制を行うことができるのは、規則を制定・適用する権限を有する者に限られるということになります。それ以外の者による制限は、物理的あるいは心理的圧迫等によるのであって、規則の制定・適用によるとは言えないからです。

以上をふまえて考えてみると、「ゾーニング」それ自体は、たとえば自分の店の商品陳列の仕方等を決める権限を有するコンビニなどが、一定の要件を充足する商品については他の商品と同じ棚に置かないというルール(規則)を制定し適用することで、その商品の販売方法・場所を制限するものですから、規制にあたりうると言えるでしょう (もっとも、これは「規制」ではあるかもしれませんが「法的規制」ではないので、そこはさらに別途の考慮をする必要があるでしょう)。

これに対して、「ゾーニング要求」をするのは自らゾーニングをすることのできない外部の者です。 このような者は、自らゾーニングできない、すなわち規則を制定・適用する権限を有しないのですから、仮に「ゾーニング要求」によって物事が制限されるようなことがあったとしても、それは上記のとおり規則の適用以外の要因によるものです。したがって、「ゾーニング要求」は「規則を制定・適用して物事を制限すること」という規制の定義に該当しないため、規制とは言えません。

以上のようなことは、たとえば交通犯罪厳罰化の動きなどを想起するとよく分かるのではないでしょうか。近年、交通犯罪の厳罰化が進んでいますが、この厳罰化自体は規則による制限を強化するものですから、規制(の強化)と言えますし、実際世の中でもそのように表現されることは少なくないでしょう。

一方で、こうした厳罰化は、交通事故被害者などが厳罰化(規制強化)を求めて粘り強く活動し、またそれを受けて世の中でも「交通犯罪厳罰化すべし」との声が高まった結果でもあるわけですが、こうした交通事故被害者などの活動や世の中の声を「規制(の強化)」と表現することはないはずです。それは、これらの者が交通犯罪に重罰を科すという規則を制定・適用する権限を有しないからに他なりません。

そして、このような例からも分かるように、規制を要求することは言論活動のきわめてオーソドックスな一類型です。それ自体で忌避されるようなものでは全くありません。

歪な相対主義・個人主義の影響で、こんにちの社会では他者に何かを求めるとすぐに押しつけだなんだと騒ぎ出す手合いが現れ、規制を求めること自体が悪だとでも言わんばかりの風潮があるようにさえ感じられます。しかし、当然ながら規制を求める者にも(多くの場合)それを実現する権限があるわけではなく、その意味で彼の規制を求める表現は憲法21条1項の保障を受けるべき単なる一表現にすぎないのです。そうした表現に認められる影響力があるとすれば、せいぜいそれは事実上の萎縮効果のようなものでしょうが、そのような効果は、ネットに氾濫する罵詈雑言にも同様に認められるものです(他者への侮辱や名誉毀損につながりやすいという意味で、むしろそうした罵詈雑言の方が一般的には悪質な可能性が高いとさえ言えるでしょう)*1。ある言説の規制を求めることは悪であって許されないが、ある言説をバカにすることは許されるなどというのは、とんでもない欺瞞であると言わざるを得ません。

以上、規制について簡単に説明してみました。何かの参考になれば幸いです。

*1:なお、度が過ぎる表現については、権利侵害という観点から、民事では不法行為に基づく損害賠償、刑事では侮辱罪や名誉毀損罪、あるいは威力業務妨害罪などという形で手当てがなされています。

規制目的の積極・消極

前回記事に引き続いて、積極・消極の区別についてお話ししたいと思います。

今回は、「規制目的にも積極・消極の区別がある」という話です。

 

規制目的における積極・消極の区別は、主として職業選択の自由などのいわゆる経済的自由権に対する規制で問題となります。

積極目的規制とは、社会・経済政策上の見地からなされる規制のことです。たとえば、大型スーパーに対する出店規制のようなものをイメージすると分かりやすいでしょう。自由競争に任せていると、大型スーパーによる焼畑農業的な経済活動によって地域に根づいた中小の業者が打撃を受け、地方経済が荒廃しかねません。そのような事態を防ぎ地方経済の発展を確保するため、大型スーパーに対して一定の出店規制を課す。これが積極目的規制です。

消極目的規制とは、社会に生じうる危険を防止するためになされる規制のことです。たとえば、医師という職業が資格制になっていることを想起してみてください。専門的な技術を持たない人が自由に医療行為を行っていると、誤った診断・治療等によって多くの人の生命や身体に重大な被害が生じかねません。そのような事態を防ぐため、資格を有する者にのみ医師という職業に就くことを認める(=それ以外の者が医師という職業に就くことを規制する)。これが消極目的規制です。

 

さて、それではここで1つ質問しましょう。積極目的規制と消極目的規制、許容されやすい*1のはどちらだと思いますか。

正解は、積極目的規制です。

積極目的規制の方が一応は許容されやすいと考えられている理由は、前回記事を読んでいる方ならばお分かりだと思います。すなわち、この規制が社会・経済政策上の見地からなされるものであるところ、多様な観点をふまえてより適切なものを選ぶという政策的決断を要する場面においては、政治部門の判断を尊重する必要があるからです。

上記の説明でもまだ分かりにくいという方は、少し大ざっぱな理解になってしまいますが、「利害調整」というキーワードを用いて整理してみるとよいかもしれません。社会・経済政策というのは利害調整をくり返して練り上げられるものです。そして利害調整というのはまさに政治部門の職分です。なので、積極目的規制では政治部門の裁量が広い。これに対して、社会に生じうる危険の防止、それこそ人が生きるか死ぬかというようなことについては利害調整の対象とはなりにくい。そうすると、政治部門の職分からはやや離れている面もあるということで、裁量が多少狭くなる、というわけです。

このように、規制を積極目的と消極目的とに分類し、前者は後者に比して許容されやすいとする考え方を、目的二分論といいます。少なくとも一昔前までは、日本の裁判所は目的二分論の立場をとっていると言われていました。興味のある方は、小売市場事件判決*2薬事法距離制限事件判決*3にあたってみてください。

簡単にだけ説明しておくと、前者は、小売市場の開設について設けられた許可規制が憲法22条1項に反するのではないかということなどが争われた事案です。この点について最高裁は、個人の経済活動に対して社会経済全体の調和的発展を図るため(積極目的!)一定の規制を加えることは憲法の予定するところであるとしたうえで、社会経済の分野においてどのような規制措置をとるか等は立法政策の問題として立法府の裁量的判断に委ねるほかなく、ただ立法府がその裁量権を逸脱し、規制が著しく不合理であることが明白な場合に限って違憲になるとの一般論を示しました。そして、上記許可規制は社会経済の調和的発展を企図するという観点からとられた措置、すなわち積極目的規制であるところ、これが著しく不合理であることが明白だとは認められないとして、憲法22条1項違反の主張を退けたのです。

後者については、以下の記事で紹介しています。

わが国における法令違憲判決まとめ - U.G.R.R.

 

もっとも、今回もくり返しておかねばなりませんが、こうした区別はあくまでも図式的なものであり、いちおうの目安にすぎません。

言うまでもなく、規制が積極目的であるか消極目的であるかの判断はそれほど明快にできるものではありません。たとえば公衆浴場の開設許可にかかる距離制限について、昭和30年の最高裁判決*4では「国民保健及び環境衛生」という消極目的からの規制であると読めるような判示をしているのに、平成元年の最高裁判決*5では「積極的、社会経済政策的な規制目的に出た立法」すなわち積極目的規制である旨を明言していたりします。

また、近時の判例*6には、財産権の規制について、それが是認されるかどうかは「規制の目的、必要性、内容、その規制によって制限される財産権の種類、性質及び制限の程度等を比較考量して判断すべき」としているものなどもあります。こうした潮流に思いを馳せるとき、規制目的だけに着目した単純な二分論ではこぼれ落ちてしまうものがあることは、強く意識せざるを得ないところでしょう。

積極目的規制・消極目的規制という概念はきわめて基礎的で重要なものではありますが、これを絶対視してしまうことのないよう注意してください。

 

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年)

*1:というのは少々正確性を欠く表現かもしれませんが。

*2:最大判昭和47年11月22日(刑集26巻9号586頁)。

*3:最大判昭和50年4月30日(民集29巻4号572頁)。

*4:最大判昭和30年1月26日(刑集9巻1号89頁)。

*5:最判平成元年1月20日刑集43巻1号1頁)。

*6:最大判平成14年2月13日(民集56巻2号331頁)。

積極・消極の区別

先日、積極・消極の区別みたいなことが話題になっていました。

私のはてなブックマークの相互お気に入りの中にも、この区別について戸惑っていたりもっと知りたいと思っていたりする方が何人かおられるようだったので、「憲法上の権利と積極・消極の区別」くらいのテーマで簡単にお話ししたいと思います。

 

さて、ご存じのとおり、憲法上の権利、いわゆる基本的人権日本国憲法の第3章に規定されていますが、これらの権利も、積極的権利や消極的権利(だけではないですが)に分類することができます。3つ例を挙げてみましょう。どれが積極的権利でどれが消極的権利か分かりますか。

  1. 表現の自由(21条)
  2. 職業選択の自由(22条1項)
  3. 生存権(25条)

簡単すぎるでしょうか。正解は、3が積極的権利、1,2が消極的権利です。

消極的権利とは、国家による介入を排除して個人の意思決定や活動を保障する権利です。表現の自由であれば、国家によって自分のしたい表現を禁止されたり、あるいはしたくない表現を強制されたりしない権利(後者を消極的表現の自由といいます)。職業選択の自由であれば、自分の従事する職業の選択等について、国家によって禁止されたり強制されたりしない権利という具合です。これらは、国家からの干渉を排除するものであることから、「国家からの自由」とも呼ばれます。

これに対して積極的権利とは、個人が人間らしい生活を営めるよう国家に対して積極的な配慮を求める権利です。生存権であれば、これを具体化した生活保護法に基づき、国家に対して保護を求める権利という具合です。これは、国家による措置を求めるものであることから、「国家による自由」とも呼ばれます。

想像がつくと思いますが、これらの権利のうち、最初に認められたのは消極的権利の方でした。国家による不当な介入を排除しさえすれば、自律した個人による自由競争のうちに社会は発展し、社会全体の福祉も増進すると考えられていたためです。

しかし産業革命の進展する19世紀の社会において、自由競争は極端な貧富の差をもたらし、貧しい人にとって自由とは飢える自由でしかなくなっていきます。これは例えば、低賃金での重労働を、労働者は契約自由の建前上拒めることになっているけれど、それは蓄えのない彼にとって餓死を意味する、というようなイメージです。そこで、こうした状況を克服し、貧しい人も本当の意味で自由に生きていけるようにするために、積極的権利が認められるようになったのです。

 

こうした権利の性質の違いから、一般的には、 積極的権利に関しては、国家に広い裁量が認められやすくなっています。国家の側が積極的に給付を行うという場面であり、どうしても政治的判断が必要になってくるからです。

一方で消極的権利に関しては、国家に求められているのは積極的な給付などではなく単なる不干渉であること等から、一般的には、その裁量はいくらか狭くなります。また一口に消極的権利と言っても、表現の自由のようないわゆる精神的自由権と、職業選択の自由のようないわゆる経済的自由権とがありますが、傾向としては、前者の権利に対する制約の方が、後者に比べて正当化されにくくなっています。後者の権利については経済政策上の観点からの制約がなされる場合もあり、そうしたときにはその政治的判断をある程度尊重する必要があるためです。

もっとも、こうした区別はあくまでも図式的なものであり、いちおうの目安にすぎません。たとえば生存権であっても、ひとたび立法がなされて一定の制度が整備されたのならば、そこには消極的権利に近い性格が付与され、その制度を後退させたり廃止したりする場合には、ある程度慎重に正当性が検討されることになるでしょう。また、先ほど表現の自由に対する制約は正当化されにくい傾向にあると述べましたが、一口に制約と言ってもその態様はさまざまです。たとえば表現する時間や場所に対する制約であれば、表現内容自体に着目して制約を加える場合に比して正当化されやすいということになるでしょう。さらに言えば、そもそも権利をこのように完全にカテゴリカルに振り分けることなどできません。権利というものは、多くの場合複合的な性格を有しているからです。そうしたことに思いを致さず、「この権利は○○だからこう、その権利は××だからこう」などと機械的に処理してしまうことのないよう、注意してください。

 

以上、積極・消極の区別について簡単に説明してみました。なお、実は今日お話ししたことの3分の2程度は、「わたリベ」カテゴリーの記事ですでに述べています。

わたリベ カテゴリーの記事一覧 - U.G.R.R.

このカテゴリーの記事は、人気がないのですが、これくらいは共有しておいてほしいと思う基礎的知識についてまとめたものなので、読んでいただけるとうれしいです。

 

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年)

わりと普通の感覚だと思うけど

こんなまとめ記事に接しました。

フェミさんの認識「24歳の女性はまだ子供」 - Togetter

50歳近い某男性芸能人が24歳女性と結婚したというニュースに関連して、ある人(フェミニストだそうです)が「自分が当時どうだったかの感覚で考えると、24歳女性なんて子どもに毛の生えたくらいの存在」という趣旨の発言をしたところ、「フェミニストは24歳の女性の正常な判断能力や決定権を否定している」というような例によってズレた感じの批判が集まった、という話のようです。

まず大前提として、個別の案件に対しては当然ながら何も言えないですよね。若くても成熟した人もいれば、いい年して子どもみたいなことを言い続けている人もいる。はてなブックマークなんて後者のタイプの人のたまり場みたいになっていますしね。某男性芸能人と結婚したというその24歳女性の人となりについて知悉していない限り、その件自体についてコメントすることはできない。

ただしそのことは前提としたうえで、一般論として「24歳は子どもに毛の生えたくらいの存在」という感覚は、別にフェミニストに特有というわけでもない、ごく普通のものだと思いますよ。まとめ記事や記事への反応では24歳「女性」というところにやたらとこだわっているものが目立ちますが、男性だとか女性だとか関係なく、24歳じゃまだ社会経験が足りないよね、という話。たとえば裁判員は、当分の間衆議院議員の選挙権を有する20歳以上の者の中から選ぶこととされていますが、制度導入時の議論では、25歳以上の者から選ぶべきこととするべきだという意見もかなり強力に主張されました*1。そこでは京都大学教授や法曹などの錚々たる顔ぶれが、20歳くらいではやはり社会常識・社会経験の面で不安があるというようなことを言っています。……というか、そもそもこんな大げさな例を引くまでもなく、「24歳なんて社会に出たてのひよっ子で、まだ右も左も分かってない(人も多い)」なんていうのは、どこでも見かける言い草でしょう。本当に、「フェミ」がからむと発狂するというか、大したことのない言動までむりやり「フェミ」と結びつけて大騒ぎするの、いい加減やめませんか。

 

【2019年10月1日追記】

誤読されそうな気がするので念のため追記。

私が話題にしているのはあくまでも「24歳は一人前じゃないという感覚」です。より正確には「その感覚が一般的であること」かな。(読めばわかるはずだけど)それ以上のことは述べてません。

つまり、「その感覚」あるいはそれに基づく干渉への評価という部分にはふみこんでないってこと。単に「その感覚」を「フェミ」だけが持つ突飛なものであるかのように捉えるのはいろいろ見誤ってるよねという、それだけの話です。

*1:裁判員制度・刑事検討会(第14回)などを参照してください。

裁判員裁判トリビア

寡聞にして存じあげなかったのですが、安倍を内乱予備罪で告発なんていう動きがあったんですね*1

告発理由が少し気になったので軽く検索してみましたが、「アエラ・ドット」の記事*2によると、以下の3つの「罪状」があるそうです(もっとも、これは1年前の記事なので、その後追加・変更等があるかもしれませんが)。

……うーん。これらは違憲ないし違法の問題を生じうるとは思いますが……。内乱予備とは内乱の予備をすることで*3、 内乱とは「国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動」をすることなのでね……*4。率直に言って構成要件にかすりもしてないと思います。

まあ、告発者もおそらく本気でこのような犯罪が成立すると思っているわけではなくて、告発を通じて問題提起を行い、国民的な動きを巻き起こしたいということなのでしょう。そうであるとすれば、上記のような「罪状」に問題があること自体はたしかなので、ある程度理解できる動きではあります。私自身は、さすがにちょっとのれないですが。

 

ところで内乱罪といえば、私、裁判員裁判とのからみで最近ちょっとした雑学的知識を得たんですよね。こんな犯罪が問題となることなんてほとんどないとは言え、日ごろ条文を丁寧に読んでいれば気づけるはずのことであり、「今ごろかよ」とツッコまれれば恥じ入るばかりなのですが、せっかくなので紹介しておきます。

みなさまご存じのとおり、裁判員裁判の対象事件については、裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(以下「裁判員法」といいます)2条1項に定めがあります。引用します。

第二条 地方裁判所は、次に掲げる事件については、次条又は第三条の二の決定があった場合を除き、この法律の定めるところにより裁判員の参加する合議体が構成された後は、裁判所法第二十六条の規定にかかわらず、裁判員の参加する合議体でこれを取り扱う。

一 死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件

二 裁判所法第二十六条第二項第二号に掲げる事件であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るもの(前号に該当するものを除く。) 

ご覧いただいたとおり、1号で死刑または無期の懲役・禁錮にあたる罪にかかる事件が挙げられています。内乱罪の首謀者については法定刑が死刑または無期禁錮ですから*5、なんとなーく読み流していると、内乱罪にかかる事件は裁判員裁判対象事件なのかな、なんて思ってしまいませんか。

でも、その柱書に「裁判所法第二十六条の規定にかかわらず」とあるとおり、裁判員法2条1項はあくまでも裁判所法26条の特則であり、地方裁判所の扱う事件における裁判体の構成について定めたものなんですよね。

そして、もう見えてきたと思いますが、内乱罪については何か特別なことがありましたよね。そう、裁判所法16条4号。内乱罪にかかる訴訟の第一審は、高等裁判所なのです。せっかくなので、地方裁判所裁判権を有する事項にかかる同法24条と合わせて引用しておきましょう。

第十六条(裁判権) 高等裁判所は、左の事項について裁判権を有する。

一~三 (略)

四 刑法第七十七条乃至第七十九条の罪に係る訴訟の第一審 

第二十四条(裁判権) 地方裁判所は、次の事項について裁判権を有する。

一 (略)

二 第十六条第四号の罪及び罰金以下の刑に当たる罪以外の罪に係る訴訟の第一審

三・四 (略) 

というわけで、内乱罪にかかる事件は、地方裁判所が取り扱うものではなく、また裁判員法には高等裁判所の扱う事件における裁判体の構成*6にかかる特則はなんら設けられていませんから、裁判員裁判の対象とはならないのです。

*1:https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/262358

*2:https://dot.asahi.com/aera/2018090600083.html

*3:刑法78条。

*4:刑法77条1項柱書。

*5:刑法77条1項1号。

*6:裁判所法18条に定めがあります。