障害児への過剰な敵意を解消するために

はじめに

以下の匿名記事に接しました。

加害する障害者をどうすればいいんだよ?

著者の通っていた小学校では養護学校の子と一緒に給食を食べることになっていたが、養護学校の子の一人が誰彼かまわず殴りまくる子で酷い目にあった。責任能力がなく何をやっても無罪の彼らが憎く、共生なんて絶対にしない、というような内容です。

障害のある人とどのように関係をもっていくかというのはなかなか難しい問題ですが、いずれにせよこの匿名記事のように「障害者はやりたい放題」などと勝手に思い込んで一人で憎悪を募らせていくのがよくないことは間違いないですね。

とりあえず、障害児に対する過剰な敵意を払しょくするための足がかりとして、上記匿名記事について簡単にコメントしてみようと思います。なお、記事に出てくる子どもたちについては、とりあえず10歳くらいと想定して話を進めます。

刑事上の責任

まず、誰彼かまわず殴りまくるという養護学校の彼(女)*1。彼が何をしても無罪だというのはそのとおりです。もっとも、そのことで「だからあいつらはズルい」などと憤るのは的外れです。それは障害という事情に配慮していないからなどではありません。他の(健常な)小学生*2も同じだからです。

わが国の刑法では、責任年齢というものが定められています。責任年齢は14歳とされており、その年齢に満たない者の行為については、罰せられることはありません。

そうすると、どのような帰結となるか。

説明するまでもないでしょうが、14歳に満たない小学生たちも全員、何をしても無罪だ、ということになります。養護学校の彼だけが特別なわけでは全くありません。

民事上の責任

以上は刑事上の責任についての話ですが、民事上の責任についても見ておきましょう。

不法行為などとして民事上の責任を追及する場合にも、やはり責任能力は求められます。もっとも、民事では刑事のように責任年齢が法定されているわけではありません。行為の責任を問う前提として、「自己の行為の責任を弁識するに足りる程度の知能」を備えていることが必要とされるのです。

こうした民事上の責任能力については一律に判断できるものではありませんが、実務上は12歳あたりが一応の目安であるとは言われているところです。したがって、10歳くらいの小学生であれば、やはり養護学校の子と同様、民事上も責任を問われない可能性が十分あると思われます。

また、もう少し根本的な話をすると、小学生くらいの子どもの場合、資力のない本人に対して損害賠償請求ができるかという問題よりも、親や学校などに対して損害賠償請求ができるかという問題の方が大きな意味を有することは少なくありません。こうした資力ある者への責任追及のための手段も、さまざまに用意されているところです。

たとえば不法行為者本人が責任無能力である場合には、親などの監督義務者が、その義務を怠らなかったこと等を証明しない限り責任を負うこととされています。また、学校側には児童に対する安全配慮義務がありますから、こうした義務への違反を理由として損害賠償を請求することなども考えられるところです。

このように、民事上の責任についても養護学校の彼だけが特別であるとは言えません。それに、仮に本人への責任追及が難しい場合――そのような場合は養護学校の彼だけでなく小学生たちについてもありうるわけですが――には、本人以外への責任追及の手段も用意されているのですから、泣き寝入りを強いられるということもありません*3

おわりに 

以上、養護学校の彼や小学生たちの刑事上・民事上の責任等について、簡単に説明してみました。

よく言われるところですが、共生の第一歩は相手を知ることです。きちんと実態を見ることもないまま、相手を悪魔化して思い込みだけで憎しみを募らせていっても、よいことは何もありません。

本記事が、障害児等の責任について正しい知識を得る助けとなることを願います。

*1:以下、煩瑣なので単に「彼」と表記しますが、もちろん性別を限定する趣旨ではありません。

*2:以下、やはり煩瑣なので単に「小学生」と表記します。

*3:もちろん、実際に争った場合に請求が認容されるかどうかは当人の立証活動次第ではあります。

だからもっと「障害者」の顔をしろ

シロクマ(id:p_shirokuma)さんの以下の記事を読みました。

「TPOのできた発達障害な人でも働きにくい社会」とそのコンセンサス - シロクマの屑籠

昭和時代に比して「大人の発達障害」の職域は狭められているのではないか。その理由は何か 、といったことなどを考える内容です。
「大人の発達障害」の職域は狭められている、というのがシロクマさんの気のせいである可能性は留保したうえで、仮にそれが事実であった場合に私の思うところを記しておこうと思います。

大前提として、われわれの社会では、たとえば「健康で文化的な最低限度の生活」というような、その人の死活にかかわるようなラインについては、絶対に守られることになっています。動きがトロくても性格に難があってもまともに人と接することができなくてもそのラインはいわば権利として保障される。まずはこのことを確認しておく必要があるでしょう。

で、シロクマさんがおっしゃっているのは、このラインの向こう側のことですよね。
「職場や家庭に居場所がほしいよう」
「誰もボクを受けいれてくれない」
この手の繰り言は、いわば権利としての保障が尽きた先の地平に属するものです。そこでは基本的に、各人の「自由」が最大限に尊重されます。気に食わないものを拒絶することができる一方で、当然自らが拒絶されることもあります。

そのような地平において「居場所を得られる」のはどのような人でしょうか。キビキビ動ける人、性格のよい人、コミュニケーション能力のある人は付き合っていて気持ちがよいので、容易に「居場所を得られる」ことが多いでしょう。ではその逆の人たちは? 付き合うも付き合わないも「自由」であるなら、あえてそうした人たちと付き合いたいと思うでしょうか。答えは明白だと思います。

そうした「逆の人たち」にもかつては居場所があったというなら、それは少なくとも彼らがコミュニティの一員であろうとはしたからでしょう。そしてコミュニティへの加入やその結束の強化は、フォーマルな関係から離れたところで行われるものです。
陳腐な例ですが、いわゆる飲みニケーションや社内行事などへの参加圧力は、かつては今よりもずっと強かったでしょう。そうした場へ連れ出されることは、「逆の人たち」にとって負担だったかもしれません。しかし一方で、そうした場への参加によって彼らもコミュニティの一員(であろうとはしている)と見なされ、居場所を与えられたという側面は間違いなくあったのだと思います。

その意味では、「逆の人たち」に居場所のない現状は、彼ら自身が生み出しているところもあるんですよね。
インターネットを見渡すと、ASDADHDを自称している人あるいはコミュニケーション能力に課題を抱えている感じの人が、常軌を逸したほとんど狂信的な仕方で「自由」を主張している例はとても多い*1。そのことについてはこれまでもくり返しふれてきたので改めて述べませんが、彼らにかかれば飲みニケーションや社内行事は「同調圧力」として切り捨てられ、社会常識の説諭は「正義の押しつけ」として糾弾されるでしょう。
そうした彼らのふるまいが誤りであるとは言いません。少なくとも現時点においてそうしたふるまいが実際に「自由」であることは多いでしょう。しかし、いわば「お荷物」のくせに人間関係の構築も価値観のすり合わせも拒むような人間を受けいれないのも、またコミュニティ側の「自由」です。
気持ちは分からないでもないのです。コミュニケーションの苦手な彼らが、コミュニケーションからの逃走を正当化するために「自由」を主張する。おそらくはそういうことなのでしょう。しかし、それは彼らをますます孤立させることにしかなりません。結局、「自由」を主張することで最もわりを食う人たちが最も声高に「自由」を主張しているわけで、哀れと言えば哀れではあります。また、「正義の暴走」「お気持ちを押しつけるな」式の論陣を張って、彼らの社会的孤立を煽り立てるシロクマさんのような論者は罪深いな、と感じるところでもあります。

私自身はこうした「自由」を盲目的に信奉するような態度は省みるべきところがあるとくり返し述べていますが、ほぼ取り合われないばかりか、罵詈雑言を投げつけられることも珍しくないですからね……。
ま、他人の考えを変えることはできません。圧倒的優位を誇る「自由」教を前に、私のような泡沫ブログの運営者など無力なものです。「そのへんどうなんですか」*2と問われても、「そう思うなら、まずはシロクマさんのような方が自身の主張を省みるのが効果的では」と申し上げるよりありません。あとは、「自由」ドグマに殉じるという方に対し、こう述べてシロクマさんも指摘する診断・治療の道を歩む可能性についての自覚を促すくらいですかね。

もっと「障害者」の顔をしろ、と。

*1:念のために述べておきますが、基本的には「自由」が重要であること自体に疑義を呈するものではありません。

*2:冒頭掲記のシロクマさんの記事より引用。

反「死刑廃止派」のための死刑廃止論

萱野稔人『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書、2017年)を読みました。

死刑 その哲学的考察 (ちくま新書)

死刑廃止論についての理解が浅いように思える箇所も多く、決して手放しで評価できるような本ではありませんでした。特に以下の記述などは失笑もの*1

死刑反対派はみずからの寛容さこそ道徳的に高尚であるという思い込み(もしくは思い上がり)をすてなくてはならない。

まずは萱野自身に「死刑反対派はみずからの寛容さこそ道徳的に高尚だと思い込んでいる」 などという思い込みをすててもらいたいところですね。そういう人もいるのかもしれませんが、少なくとも死刑に関する法的議論をふまえたうえで廃止を唱えている者の大半は、「寛容」や「赦し」として死刑廃止を求めているわけではないでしょう。少なくない場合において極刑に処されるような者は決して許すことができない*2と思いつつ、しかしそのような者であっても人間である以上生命に対する権利(人権)があるのだから、ゆえなく*3その権利が侵害されるべきではないとして死刑廃止を主張しているのです。

こうした記述からもうかがえるとおり、やたら(従来の)死刑廃止派に対する見当違いな(と私には思える)敵意が目につく本書ですが、しかし本書は結論として死刑廃止を主張しています。きわめて大ざっぱにまとめると、本書は、

  • 死刑の犯罪抑止力は証明されていないこと
  • 道徳的な見地からは死刑の問題に決着をつけられないこと

を論じて、死刑問題は政治哲学的な観点から考察する必要があるとします。そして、そのような観点からの考察として、

  • 冤罪が単なるミスではなく構造的な問題であること

などを指摘し、

  • 死刑と同等(以上)の「厳しさ」をもつものとしての終身刑の導入

によって死刑廃止の可能性を探るべきだと主張するものです。

このうち、死刑の犯罪抑止力が証明されていないというのは重要なところです。この点について、「死刑の犯罪抑止力を科学的、統計的に証明することは困難である」とする答弁書*4 や国連が発表した同旨の研究結果などが紹介されているのはよいと思います。

また、足利事件などをとりあげて冤罪が単なるミスではなく構造的な問題であることを指摘しているのもよかった。たとえば基本的に取調べでは、本人が供述を望んでいるかどうかにかかわらず、取調官は被疑者等に働きかけて供述を得ようとするものです。そして積極的に供述しようとしていない者をそうした働きかけによって供述させることは、真実でない供述を引き出してしまうリスクと不可分です。もちろん違法性のある厳しい取調べの方が虚偽供述を生む危険は大きいでしょうが、違法適法にかかわらず、取調べ自体がそうした危険性を内包しており、その危険性は取調べに熱心に取り組むほどに高まる。そうである以上、冤罪は単なるミスではなく構造的に不可避なものとして、刑事制度に織り込んで考える必要があります。その帰結として、取り返しのつかない死刑という刑罰――それ以外の刑罰については、本人への補償等がある程度可能です――は避けるべきなのです。本書はこの点についてなかなかよく考察できていたと思います。

手放しで評価することはできないものの、本書には上記のような見るべき箇所もあり、箸にも棒にもかからないというものでもありませんでした。また、死刑廃止の主張に反感を抱いているような層に対しては、むしろ本書のような論調の方が共感を得やすいのかもしれない、という気もします。死刑廃止の世論を形成するためには死刑廃止派ではなく死刑存置派にリーチする必要があることを考えれば、本書はあるいは私のような者が思う以上に価値ある一冊なのかもしれません。

*1:本書293頁。

*2:冤罪の議論はひとまず措きます。

*3:この点について論じると長くなるので、本記事ではふれません。多少関連のある過去記事として、以下を参照。 

被害者の命と加害者の命 - U.G.R.R.

*4:平成20年2月12日受領答弁第49号内閣衆質169第49号。

規範と向き合う

 id:dlit さんの以下の記事に接しました。

言語の研究者はことばの規範とどう付き合う(べき)か,についてちょっとだけ - 誰がログ

言語学は規範的ではない」というのは、おそらく*1そのとおりなのでしょう。というよりも、この種のことは大抵の学問領域で言われている気がします。

たとえばウェーバーの価値自由論。事実認識と価値判断とを区別すべきであるとするこの主張は、「この言い方が正しい」とか「このことば遣いは間違っている」といった規範の決定(≒価値判断)を行う仕組みや力は言語学にはないとするdlit さんのご説明と似たことを述べているのだと思います。そうした意味で、「言語学は規範的ではなく記述的である」こと自体は、私にはすんなり飲み込めました。

さて、「言語学は規範的ではない」、それはよいとして、その言明を取り扱う手つきについては少し気になるところです。なお、ここで「気になる」とは必ずしも批判的な意味合いではありません。言語学に限った形ではないですが、私自身日ごろ問題意識を持っているところでもあるので、純粋に興味をひかれたという趣旨です。

たとえば、言語学の規範の考え方や実際に今ある規範がそれほど強固なものではないことについての言明。それ自体は記述的であるこの言明は、しかしその機能として「規範など重要ではない」という価値判断を強化するものとなっています。

誤解のないよう強調しますが、上記の言明が「規範など重要ではない」と述べるものだと言っているのではありません(そう述べているのだとすれば、それは記述的とは言えないのですから)。そうではなくて、上記の言明が、事実上、そうした方向の価値判断を強化する機能を果たすものだと言っているのです。dlit さんの「言語学の考え方を知ってもらうことで……個人個人のレベルで心理的な負担が減ることくらいはあると良いな」との期待も、(自覚的であるか否かはともかくとして)こうした機能をふまえているからこそ抱くものだと思います。

dlit さんもおっしゃるように、専門家や研究者は強い権威・権力として機能してしまう存在です。それゆえ、規範とのかかわりについて慎重であるべきだとする主張は、理解できる。しかし、そのような主張が広く浸透している(ように見える)わりには、「言語学は規範的でない」との規範に少なからぬ影響を及ぼす言明が、あまりにも不用意な手つきでなされてはいないか。これが私の気になったところです。

先に述べたとおり、「××学は規範的でない」というのは、大抵の学問領域に妥当することだと思います。そして、いずれの領域の専門家も、「××学は規範的でない」との言明をかなり気軽に行っているように、私の目には見えます。あらゆる領域の専門家が口をそろえて「××学は規範的でない」と述べることは、規範を弛緩させ、解体する大きな力となるでしょう。その危うさはもっと意識されるべきではないでしょうか。言うまでもないことですが、たとえば言語に関する規範の完全な解体が導くものは、バベルの塔的状況の現出でしかありません。規範は大事なのです。なお、少し文脈は異なるかもしれませんが、規範(人々が何となく共有する社会規範とでもいうべきもの)は大事なのに残念ながら今日の社会においては無視・軽視されているように感じる、という類の話はこれまでにも何度かしてきました。ここでは、さしあたり以下の2記事を紹介しておきます。

太宰メソッドを越えて - U.G.R.R.

明確性なんていらない(いる) - U.G.R.R.

自戒を込めて繰り返しますが、専門家はこれまで、規範とのかかわりを忌避するという態度によって、ある種の規範の強化に無自覚に加担してきたのでしょう。それはとても危険なことです。だからこそ、専門家は各自まさにdlit さんのおっしゃるように規範と「できる限り意識的に関わる(あるいは意識した上で関わらない)」ことが必要なのであり、私自身もその末席に名を連ねる者として真摯に規範と向き合う所存である、という表明をもって、新年の抱負にかえようと思います。

本年もよろしくお願いいたします。

*1:私自身は言語学に通じていないので、「おそらく」としか言えないわけですが。

ロジハラの起源など

ロジハラという言葉がテレビ番組で取り上げられて話題になっているようです。

犯人「探偵さん、ロジハラですか? やめてください」 →正論で追い詰めるのを「ロジカル・ハラスメント」と言うらしい。 - Togetter

同じテレビ番組をとりあげた東スポの記事*1によると、ロジハラ(ロジカル・ハラスメント)とは、「正論ばかりを突きつけて相手を追い詰めるハラスメント」のことだそうです。まさか東スポをソースに使う日が来るとは思いませんでしたが、まあこういうお世辞にも品があるとは言えない話題にはむしろふさわしいかもしれません。

簡単に調べてみたところ、「ロジハラ」という言葉の起源はこの辺りのツイートに求められそうです*2

このツイート以前に「ロジハラ」という言葉の使用が全くないわけではないものの、その数はきわめて少なく、一般に浸透しているという感じではありません。虫のように群がってきたまとめサイトが上記のツイートをあげつらうスレッドをこぞって紹介したことが、この言葉が広く認知されるきっかけとなったものと思われます。参考までに、そうしたまとめサイト記事の1つを紹介しておきます*3

[B!] 女「正論ばかりの人は『ロジカルハラスメント』と呼んでます。」 : 暇人\(^o^)/速報 - ライブドアブログ

ところで、上記まとめサイト記事のタイトルでは、ロジカルハラスメントを糾弾する主体は女になっています。ちなみに主体が女となっているのは他のまとめサイト記事の大半でも同じで、「女」「女さん」「まんさん」「ツイ子」などとされています。 これは、上記ツイートを行った方のアカウント名に「おばさん」という語が含まれていたためでしょう。そして、発端においてこうして女の発した言葉として紹介されたためか、こんにちにおいても「ロジハラ」を糾弾するのは女である、というようなイメージを伴ってこの言葉が用いられることが多いように感じられます。

しかし、上記ツイートをした方の他の発言も確認してみると、どうもこの方女性ではないようなんですよね。「メンズおばさん」は診断メーカー「アダ名をつけるっター」でつけてもらったとのことであり*4、「君の肌は男性にしてはすごくスベスベしていて触ってるだけで癒される」とベテラン風俗嬢に言われたといったエピソードなども紹介しておられるので*5、普通に男性なのだと思います。

つまり、ロジハラ云々はもともと男性の発言なのに、まとめサイト等が勝手に勘違いして女の発言として喧伝し、女叩きの道具にしたという……。ま、驚きはしません。そういうレベルの低い連中だということはよく知っているので。ただ、このエピソードはちょっと象徴的だな、とは感じますかね。ロジックをやたらありがたがる人って、けっこうな確率で物事と誠実に向き合おうとする姿勢に欠けている気がします。地道な調査なり勉強なりといったことを怠って、聞きかじりの知識と中学生みたいな斜に構えた屁理屈を開陳して悦に入る、みたいな。このエピソードも、「オレサマの深い洞察(女は論理性に欠けるw)」に合いそうなツイートを見つけたのでまともに確認もせずに安易に両者を結びつけた結果、盛大に誤爆かましたって面があるんじゃないですか。完全な印象論ですが。

*1:https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/2268504/

*2:なお、念のために述べておくと、私はこのツイートに特段の問題があるものとは考えていません。

*3:まとめサイトへのアクセスに貢献する必要もないと思うので、ブックマークページにしました。

*4:https://twitter.com/choku_nyu/status/943048412349566976

*5:https://twitter.com/choku_nyu/status/961612368533848064

タグの付与

はてなブログでタグを付けられるようになり、キャンペーンをやっているようです。

タグはあれば役に立つ場面もあると思うので、いくつかの過去記事に付けてみました。

まず、以下の3記事に「ヘイトスピーチ」のタグを付けました。

川崎市新条例と罰則のない禁止規定について - U.G.R.R.

川崎市新条例はなぜ日本人へのヘイト(笑)を罰しないのか - U.G.R.R.

川崎市新条例の明確性について - U.G.R.R.

また、以下の2記事に「天皇」のタグを付けました。

天皇制を終わらせたいという気持ち - U.G.R.R.

天皇は得する側だろ、という視点も持ちたい - U.G.R.R.

今後も、気が向いたら過去記事にタグを付けることがあるかもしれません。

わいせつ教員を教壇に戻さない話

以下のニュースに接しました。

「わいせつ教員を教壇に戻さない方向で法改正を」文部科学相 | 教育 | NHKニュース

多分きちんと調べればなかなか興味深い問題なのですが、残念ながら今はちょっと調べていられません。ただ、上記ニュースへの反応*1を見ているとどうもよく分かっていない人が多そうなので、これがどういう話なのかについてだけ簡単に説明しておきます。

上記ニュースでは、児童や生徒へのわいせつ行為で懲戒処分を受けて教員免許を失効した教員について、処分から3年が経過すれば教員免許を再取得できる仕組みを見直す動きが報じられています。ここで言われている「処分から3年が経過すれば教員免許を再取得できる仕組み」とは教育職員免許法*25条1項4号および5号のことです*3

(授与)

第五条 普通免許状は、別表第一、別表第二若しくは別表第二の二に定める基礎資格を有し、かつ、大学若しくは文部科学大臣の指定する養護教諭養成機関において別表第一、別表第二若しくは別表第二の二に定める単位を修得した者又はその免許状を授与するため行う教育職員検定に合格した者に授与する。ただし、次の各号のいずれかに該当する者には、授与しない。

一、二 (略)

三 禁錮以上の刑に処せられた者

四 第十条第一項第二号又は第三号に該当することにより免許状がその効力を失い、当該失効の日から三年を経過しない者

五 第十一条第一項から第三項までの規定により免許状取上げの処分を受け、当該処分の日から三年を経過しない者

六 (略)

2~7 (略)

ちなみに、法5条1項4号で言及されている法10条が免許状の失効、法5条1項5号で言及されている法11条が免許状の取上げについて定めた条文です。すべて紹介しているとダラダラと長くなってしまうので、法10条だけ引用しておきます。

(失効)

第十条 免許状を有する者が、次の各号のいずれかに該当する場合には、その免許状はその効力を失う。

一 (略)

二 公立学校の教員であつて懲戒免職の処分を受けたとき。

三 公立学校の教員(地方公務員法(昭和二十五年法律第二百六十一号)第二十九条の二第一項各号に掲げる者に該当する者を除く。)であつて同法第二十八条第一項第一号又は第三号に該当するとして分限免職の処分を受けたとき。 

2 (略)

これらの条文をふまえて、教員免許再取得の仕組みについて改めて確認してみましょう。以下では、話を分かりやすくするためにわいせつ行為によって懲戒免職処分を受けた公立学校教員の例を用いて考えることにします。

わいせつ行為によって懲戒免職処分を受けた公立学校教員は、法10条1項2号によって、教員の免許状の効力を失います。この者がなおも教員として働きたいと考える場合、教員は法が定める相当の免許状を有する者でなければなりませんから*4、教員免許の再取得を目指すことになります。

ところで、法5条は教員免許の授与について規定した条文ですが、同条1項柱書ただし書きは「次の各号のいずれかに該当する者には(教員免許を)授与しない」*5と定め、続く1号から6号に教員免許の授与を受けることができない者が列挙されています。そして、その4号には「第十条第一項第二号……に該当することにより免許状がその効力を失い、当該失効の日から三年を経過しない者」が挙げられているところ、すでに見たとおり、わいせつ行為によって懲戒免職処分を受けた公立学校教員は、まさに法10条1項2号によって免許状が効力を失った者です。したがって、わいせつ行為によって懲戒免職処分を受けた公立学校教員は、免許状の失効の日から3年間は教員免許の授与を受けることができません。

もっとも、これは裏を返せば、わいせつ行為によって懲戒免職処分を受けた公立学校教員であっても、失効から3年を過ぎれば「失効の日から3年を経過しない者」から外れ、教員免許の授与を受けうるということでもあります。上記ニュース中にいう「処分から3年が経過すれば教員免許を再取得できる仕組み」とは、このことを指しているのです。

さて、ここで1つ注意しなければいけないことがあります。教員免許の授与を受けることができない者を列挙した法5条1項各号をもう一度見返してみてください。そうすると、その3号に「禁錮以上の刑に処せられた者」が挙げられていることに気づくと思います。

当然ですが、一口にわいせつ行為と言っても、 その内容は必要以上の身体への接触という程度のものからレイプのようなものまで、さまざまです。そして、シャレにならないような酷いわいせつ行為については、もちろん刑事裁判にかけられ、刑罰が科されます。たとえば、強制性交等の法定刑は5年以上の有期懲役*6。強制わいせつの法定刑は6月以上10年以下の懲役です*7。なお、懲役は基本的に禁錮以上の刑です*8

したがって、シャレにならないわいせつ行為で懲役を食らった公立学校教員は、3年が経過しても教員免許を再取得することはできません。禁錮以上の刑に処せられた者」として法5条1項3号に該当するからです。「処分から3年が経過すれば教員免許を再取得できる」のは、わいせつ行為を行ったものの罰金程度ですんだ、あるいは起訴に至らなかった、といった場合の話なのです。本件について考える際には、まずこのことを念頭においておく必要があるでしょう。

しかし、懲役を食らった公立学校教員も、永久に教員免許を再取得できないというわけではありません。刑法34条の2第1項に次のような規定があるからです。

(刑の消滅)

第三十四条の二 禁錮以上の刑の執行を終わり又はその執行の免除を得た者が罰金以上の刑に処せられないで十年を経過したときは、刑の言渡しは、効力を失う。罰金以下の刑の執行を終わり又はその執行の免除を得た者が罰金以上の刑に処せられないで五年を経過したときも、同様とする。

2 (略)

禁錮以上の刑に処せられても、その執行後罰金以上の刑に処せられることなく10年が経過すれば、刑の言渡しは効力を失います。 ここに「刑の言渡しは、その効力を失う」とは、刑の言渡しに基づく法的効果が将来に向かって消滅するということです*9。したがって、懲役を食らった公立学校教員も、オツトメを終えて10年間おとなしくしていれば、刑の言渡しが効力を失い、法5条1項3号にいう「禁錮以上の刑に処せられた者」にあたらなくなる結果、教員免許の再取得が可能となります。

一定の場合に刑の言渡しの効力を失わしめることは、スティグマの回避という意味で、合理性を有するものと言えます。このような可能性をも否定して、永久に教員免許の再取得を不可能とする制度を構築するなら、それは職業選択の自由を定める憲法22条1項に反して違憲となる可能性がかなり高いと思われます。そこで、こうした違憲の問題に目配りをしつつ、なおもわいせつ教員を教壇に戻さない方策を考えるとすれば、広く裁量の認められる採用段階で「工夫」をするということになるでしょう。下記のニュースで報じられている動きも、そうした方向での「工夫」の一環であると理解できそうです。

教員免許失効情報 検索できる期間 3年から40年に延長へ 文科相 | 教育 | NHKニュース

それでは、このような「工夫」に問題はないのか。どの程度まで「工夫」は許されるのか……といったあたりは、なかなか興味深く、ぜひ調べてみたいのですが、 冒頭述べたとおり残念ながら今はちょっと無理なので、ひとまずここで話を終えます。ここまでのお話が多少でも参考になれば幸いです。 

*1:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20200929/k10012639511000.html

*2:以下、「法」といいます。

*3:太字強調は引用者による。以下同じ。

*4:法3条1項。

*5:()内は引用者において補足。

*6:刑法177条。

*7:刑法176条。

*8:刑法10条1項、9条参照。

*9:最判昭和29年3月11日(刑集8巻3号270頁)。